H29-7-30; 日曜、さてどうなることやら

H29-7-30; 日曜、さてどうなることやら

今朝も睡眠不足。1時に消灯するも、3時に目が覚めてしまう。
昨夜、花火後の上機嫌で帰宅した娘に、何故か苛立ってしまい、大人気ない。

そう、このところどうかしている。目が冴えてしまい、前日本棚の整理でみつけた年賀状の束を、
そっと引き出して、中身を調べた。何かに見落としているものはないかと探すも、10年ほど前のもので既に故人となった分の4-5枚を削除しただけ。
 昨夜、本棚の一冊を何気なく開いてみたら、家内の書いたメモが出来てきた。さらに、別の紙袋の中から、3年前の発病時期のメモが見付かり、複雑な気分となる。 これは、当時彼女がどう考えていたのかを知る手がかりとなった。それら5-6枚を改めて見ると、とても眠れるものではない。

果たして、今の異常な精神状態は、時間が解決してくれるだろか、漠然とした不安の霧がかかる。
窓外は、まだ静穏だ。日曜日なのか車の音も殆どない。周囲の音に敏感になっている自分が怖い。まだ4時前だ。
 外に出ると、前日の雨で道路が濡れており、ねっとりした室内とは一転、心地よい気分になる。ちちょうど新聞配達のバイクが数台、まだ暗い道路を走っている。4時のニュースはイランと米国の対立。力と力のぶつかり合いは、歴史的にみてもロクなことがない。

10分そこそこで散歩から戻り、新聞受けを見るも、まだ来ていない。
仕方がないので先日書きかけの手紙でも書こうか。
夕べ、家内が使っていた万年筆が出てきた。インクを入れ直しておいたのだが、ペン先が乾燥しているので字が書けない。仕方なく洗面所で水を垂らしてやっとOK.

15年以上も前のこと、受け持った子の1人に印象的な母親がいた。何故か年賀状が毎年来るのだが、ここ数年前からモーロク気味でズボラな私は、年賀状すら書かなかった。今年の2月あるいは3月だったかのか気憶に無いが、その子の訃報が母親から届いた、私は、ずっと気にはしていたが、引越しのドサクサに紛れて、その手紙もどこかへ行ってしまった。
 2週間ほど前、ふと思い立ちその母親にお悔やみの手紙を書いたところ、思いもかけず返事が来た。生来軽薄な私は、その内容に再度ジーンと来て、またも拙劣な字と文章の手紙を認めた。気になったのは、彼女の母親がうつ病とのこと。これは人事(ひとごと)ではない。能天気で人がいいのか、あるいは単なるアホなのか、余計なことを書いてしまった。お困りのことがあれば、どうぞと。
一種の異常な心理状態がそうさせたのか、でも、書かなきゃこの気持ちは伝えられない。後先も考えずに、突っ走るのは、家内の影響かもしれない。

10時少し前、非常勤務先で約束していたM氏とお会いする。ずっとお世話になっていた人だが、吉とでるかまた凶と出るかわからない情報提供者でもある。家内のことが話題に出ることを嫌っている娘は、本日の会合にいい顔をしなかった。今度のことでようやく少しオトナになった(気がする)私は、相手の言い分を傾聴したうえで、さりげなく話題を逸らし、こちらの実情をお伝えした。ただひとつを除いて。

M氏が立ち去ると、また私の孤独な時間が訪れた。老化の特徴だろうか、つい目頭が熱くなり、じっと堪えて、お湯を沸かした。何時のものか不明の紅茶のティーバッグが机の引出しにあった。香りはほとんどしないが、昔小学校1年生のときのことを思い出す。

 同級生にちょっと生意気な女の子がいた。その家に何故か度々お呼ばれし、定番は紅茶だった。カッペーの私は、生まれて初めて口にする紅茶の香りだった。今でも覚えているのは、その母親が美人だったからだろう。いつかこういった女性を奥さんにしたい、と変態とでもいふべき私は朧げに考えていた。
そこうした潜在意識の線上で、家内と出合った。私のようなブ細工でダラシナイ男には勿体ない、最高の女性であり母親だった。

ふと気がついたら、コップの紅茶はすっかり冷えて、香りはどこかに消え去って

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