4月7日、原稿ドラフト

サケられない「行き当たりばったり」

 桜の咲く時期になった。そして、もう一年経ったのかという、ちょっともの寂しい感慨になる。
昔のTVで「ベン・ケーシー 」なる番組があった、昭和36年(1961年)から5-6年ほど続いたイタリア系ヴィンセント・エドワーズ主演の医学ドラマで、冒頭の黒板に記号で「男・女・誕生・死亡・無限」を思い起こす。
 縁あって、帰巣本能に従ったのか、佐久に戻ってきて、皆様にご挨拶しろとの原稿依頼あり、
どうしようかと思案、数年前から複数のブログに書いた記事をコピペで編集する作業となった。

 無闇矢鱈に突っ走り、落ち込み、それに懲りずにまた突っ走ることの繰り返しで、馬齢を重ねてきた。
 先日、NHKニュースでちょっと嬉しい情報があった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180406/k10011392641000.html

「老いても脳は生まれ変わる 米コロンビア大の研究」

>>脳の活動を支える神経細胞は、ネットワークを作って、人間の思考をつかさどり、体を動かす指令を出していますが、年齢を重ねると減って、新たに増えることはなく、認知機能などにも影響が出ると、長年にわたり、考えられてきた。この神経細胞について、アメリカのコロンビア大学の研究グループは、亡くなった直後の14歳から79歳の男女28人の脳を調べた結果をアメリカの科学雑誌「セル・ステムセル」に発表した。

それによると、脳の中で認知機能や感情に関わる「海馬」という部分から未成熟の神経細胞が数多く見つかったという。こうした細胞は、79歳の人でも見られ、研究グループは年齢を重ねても若い人と同様に新しい神経細胞が生まれていることがわかったとしている。

一方で、神経細胞に栄養を運ぶ血管は年齢が高いほど少なく、神経細胞が成熟しにくい状態だった。
研究グループのマウラ・ボルドリーニ博士は「今後、研究が進めば年齢を重ねても、脳の神経細胞を増やし、認知機能を維持できるようになる可能性がある」と話しており、

将来、認知症などの治療法の開発にもつながる研究成果として注目

なぜならば、ヨワイ(弱い?)69になんなんとする小生の ボケかけたノース細胞も、、と諦念から希望へとシフトチェンジできるからだ。
それまでは下記号が注目された;

>>先月、英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された論文では、13歳以上の海馬では新たな神経細胞が生成された証拠が発見できなかったとの研究結果が示されていた。 

今回、米ニューヨーク・コロンビア大学(Columbia University)の研究チームが米科学誌セル・ステムセル(Cell Stem Cell)に発表した研究結果は、これと真っ向から対立するものだ。高齢化が進む世界の中で、認知症を回避するカギを求める科学者たちから注目が集まっている。   

ここで一段落、
 「一寸先は闇だ」という。半年ほど前に、突然闇に突き落とされ、体調を崩した。
幸い、家族親族友人に助けられ、体力回復しつつある。「バカは風邪をひかない」といわれる如く、丈夫な身体だけが取り柄所以、入院せずに済む。これを機会に、私と同様に薬と病院嫌いの高齢の母が気がかりで、前々から準備していた田舎に戻ることとした。
ガクンと落ちた体重は戻らないが、必死で食べてジョギングしつつ、いままでのことを振り返ってみた。
 

 考えてみると、といっても思考力や洞察力は人様に遅れをとるから、「下手な鉄砲」式に、興味のあるものは片っ端から試みてきた。早い話、将来のビジョンなる高邁なものは皆無で、無駄な労力と時間を浪費してきたかもしれない。
 新聞造りに夢中になった小学校5-6年、中学は野球に明け暮れ、高校は英語脚本作りと、写真・ギターに手当たり次第範囲を広げ、受験勉強は高校卒業後にする羽目となった。大学入学後もギター、テニス・スキー、絵画、東洋医学などに顔を出して、卒後の研修ローテートで唯一勧誘のなかった医局に入ったヘソマガリ。特に外科の先輩たちからは後々まで、「お前はバカだなあ」と溜息混じりで同情された。
理想と現実の格差は想像以上で、入局後も誰もが尻込みする所をローテートすることとなった。これも、主体性はなし。当時は先輩後輩のヒエラルキーは断固たるものがあり、唯々諾々と、怖いもの知らずで飛び込んで行った。 当時の医局には赤鬼、青鬼、とオヤブンの3人が関連病院にいた。よりによって、最初の病院は、その一番怖いオヤブンのところとなった。心配した先輩の医局員が声をかけてくれ、「とにかく早めに挨拶に行ったほうがいい」と言われ、車を走らせた。電話でアポをとり、昔の小学校の教室みたいな木造建物の一室に行った。本棚の隙間から顔を出した親分、開口一番、「何だ、お前か。」と値踏みするような視線を浴び、簡単な自己紹介と挨拶をした。
江戸っ子で、ヤクザ本職の親分からも惚れられたという噂は本当だった。就任初日から、雷が連続して落ち、毎朝、延々とお説教を食らう日々が続いた。私のオーベンは飄々と聞き流している。ここに5年我慢できたら大盤振る舞いの宴会を開いてくれると言われて、すでに7-8年たったという先輩。この先輩のクッションがなければ1週間持たなかったかもしれない。
さて、数日後に歓迎会と称して飲み会があった。そういえば、最初にお会いしたとき、「お前は酒が飲めるか」と訊かれ、「まあ、おつきあい程度に、、」と答えたことを思い出した。親分はマナー、言葉遣いにも口うるさい。タクシーに乗る順序と席の位置、当然、飲み会の座敷でも座る順番を、怒鳴られつつ習得した。上座のオヤブンはまずビールで乾杯後、本日のデューティーと称して、お調子をとりあえず5本 だ、と宣告あり。酒好きのオーベンは「まあ少ないけど、初日だからいいじゃないですか」。
 私の高校担任も酒好きだった。そして、怒り出すと、生徒を授業中だろうが片っ端から殴りつけるという名物教師だった。 私が入学したころは、大分大人しくなったらしいが、それでも、クラスの中で殴られるのは年に数回の日常茶飯事だった。高校卒業後、浪人となった私は、母校を訪れた。校舎東端の研究室に行くと、笑顔のN先生が迎えてくれて、「まあ、お前も高校卒業したから、これからお酒の飲み方を覚えないといけない」と教えられ、真昼間からウィスキーを飲まされた。古きよき時代であった。次に行くと、中込あたりの飲み屋に連れて行かれ、馬刺しを肴に、日本酒、焼酎、ブランディーなど、それぞれの飲み方のレクチャーを受けた。大学合格の際の報告挨拶も、家族以上に喜んでくれたが、大学卒業後すぐに不帰の人となった。雪のちらつく葬儀に横浜から駆けつけ、多くの同級生と再会した記憶がある。
 大学のクラブでも、お酒の洗礼があった。学園紛争で授業はないので、クラブに行くしか麻雀するしかない。練習後、先輩たちは毎月のように駅前の酒場に後輩たちを引き連れ、お酒を飲ませてくれた。先輩たちは、われら後輩にお金を出させることはなく、太っ腹のオトナとはこういうものかと教えられた。下宿で仕送りを受けているのに、どう工面にしているのか心配になったが、自然と後輩に奢るという慣例だったのだろうか。爾来、同級生と下宿で勉強会と称して、酒を飲み、頃合をみて麻雀という生活だった。
 こうした背景で、 鬼のオヤブンの二次試験はお酒7本でクリア。当初1-2年のつもりが、何故か気に入られ3年間勤務することとなった。
その後、大学に戻ったり、横須賀の病院へ勤務中に、誰もが嫌がる静岡への勤務の話があった。
私は、他人事として考えていたら、横須賀のボス(4番目の鬼)から、酒の席で説得させられた。当時は、横浜市内に一戸建て住宅を建て、3人目がまだお腹の中に入る時期だった。それでも一晩考えて、承諾。寝耳に水のカミサンは、あっさりOK,というより二人の年子を抱えて連日戦陣に立っていたのだから、思考能力もまさに「行き当たりばったり」。その連続だったような気がする。

さて、「行き当たりばったり」、この語源は何だろうと、ネット検索すると某サイトで、古代 メソパタミアの言葉らしい。
行く先に壁などの障害物があって、それ以上前に進めない状態で、直進の「停止」。ならば、
真っ直ぐ行く、闘う事は止めて曲がれ、闘いを避けよ」ということらしい。

つまり直進の「停止」となる。

ストップサインが出たので、この辺で。

random; haphazard; hit‐or‐miss; unplanned〈のんきな〉 happy‐go‐lucky

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