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7月, 2017の投稿を表示しています

H29-7-31; 月曜、晴れ時々苦藻離

H29-7-31;月曜日、晴れ時々苦藻離 断片的な睡眠で、4時頃からうとうとし、5時離床。甚平姿のまま散歩を兼ねて旧マンションに向かう。新聞はまだ来ていない。部屋に入ると、戸棚に本箱に昔の手紙があった。家内の友人からのもので、写真が同封されていた。13年ほど前のもので、ほかのどうでもいい資料破棄、娘Yの卒業額も持参して自宅に戻る。片道10分程度。 5時半には、先ずお花の水換え、痛みの残る腰をかかえてモタモタ時間がかかる。部屋の隅に古いパソコンが出てきたので動かしてみるも立ち上げ不可。そうこうするうちに6時半、ラジオ体操。合間にお湯を沸かす。ダンベルを仕舞う頃に、娘がようやく顔を出す。私はもうサラダの準備。 卵が残り少ないので、10個入りの卵ケースを取り出す。ふとモーロク頭がひらめく。この空きケースを使って、苗作りをしようと。  朝飯は7時15分頃に済むが、目下わが家のアルジ娘Rは悠然と果物にヨーグルトをかけて、新聞を読んでいる。  部屋の整理をしていると、ドン娘Rから指令あり、なんとか銀行のカードが受け付けないから、本人が来てくれないと困る。どこそこに10時に待ち合わせしたい、とこちらに有無を言わせず、切られてしまった。腕時計をみると、あと20分もない。ズボン、靴下、シャツはどこかと探して、氷入りの保冷水筒を準備するのに5分。 外は灼熱地獄。せかせかと蟹股を交互させて指定の2分前に着く。 ところが、娘Rは姿なし。LINEでもう着いた旨伝えるが、なしの礫(つぶて)。2分ほど遅れて買い物袋を抱えたRが姿を見せる。侘びのひとつもない、、、 娘はATM脇にいた係員立会いでカードを入れたら、すんなりと出来たとのこと。 買い物袋は、ずっしりと重い。また炎天下、私が持たされたことはいふまでもない。早い話、苦難にあえぐ老人に、さらなる過酷な重圧を押し付けたことになる。  人生は矛盾と理不尽に満ち溢れている。晴れる日ばかりではない、曇りもあれば雨もある。 だが、別の視点から考えると、強いて私に苦行を押し付けることで、家内のことなど考えなくなるだろうとでもいふべき、深謀遠慮があるのだろうか。口は悪いが根は優しい、ちょっと家内に似た娘Rに、一応感謝すべきだろう。 暑中見舞い

H29年7月、悪夢 7-10;市役所、司法書士

それは突然やってきた。 H29年7月3日、月曜の朝。予告なしの1本の電話、ずっと忘れることはないだろう。 けふは10日の月曜日、10時から○○会社の人と打ち合わせ、それまでに印鑑作り用意などすべきことが山積している。 我ら家族4名は炎天下で、関係資料入りのバッグを持って市役所に向かう。時刻は11時半、ここ数日健康保険無しなので、国民保険加入手続き。そして妻の年金関連の手続き。いずれも長い長い待ち時間がある。2階あるいは1階の各窓口で何度も往復し、わからないことを係員に聞きながら記入を繰り返す。  昼飯を摂る時間も無い。一応最後の受け取り窓口を出たのは13時半過ぎだ。 14時からは○産処理他で司法書士事務所に行かなければならない。灼熱の道路を通って近くのコンビニに飛び込み、4人分のお握りを購入し、事務所なあるNビル2階に行く。それらしき入り口に入り、2階事務所の場所を確認し、階段の踊り場に直接腰を下ろして慌ただしい昼飯となる。予定10分前に、お世話になっているN氏が現れる。自転車で。20分以上かけて来ていただいていると後で知る。挨拶もそこそこに事務所内に入る。  司法書士Mさんと初めてお会いする。プロとしての貫禄をにじませる女性だ。狭い一室で一同会し、早々に遺産処理の内容確認とそれに伴う手続きに必要な書類入手の説明がある。要点は以下;  1、子供3名の相続権放棄  2、○の「名○せ帳」  3、必要書類の入手方法 1時間10分ほどかけて、各人に必要な手続きの説明がなされ、事務所を後にする。 上記2のために、再び市役所に戻り「名○せ帳」申請し、同時に加入したばかりの娘 の国民健康保険を住所変更したほうがいいといふので、書き換えに入る。それまでずっとN氏が付き添い、事務所が閉まる17時の10分前に「名寄せ帳」を持っていっていただく。

H29-7-30; 日曜、さてどうなることやら

H29-7-30; 日曜、さてどうなることやら 今朝も睡眠不足。1時に消灯するも、3時に目が覚めてしまう。 昨夜、花火後の上機嫌で帰宅した娘に、何故か苛立ってしまい、大人気ない。 そう、このところどうかしている。目が冴えてしまい、前日本棚の整理でみつけた年賀状の束を、 そっと引き出して、中身を調べた。何かに見落としているものはないかと探すも、10年ほど前のもので既に故人となった分の4-5枚を削除しただけ。  昨夜、本棚の一冊を何気なく開いてみたら、家内の書いたメモが出来てきた。さらに、別の紙袋の中から、3年前の発病時期のメモが見付かり、複雑な気分となる。 これは、当時彼女がどう考えていたのかを知る手がかりとなった。それら5-6枚を改めて見ると、とても眠れるものではない。 果たして、今の異常な精神状態は、時間が解決してくれるだろか、漠然とした不安の霧がかかる。 窓外は、まだ静穏だ。日曜日なのか車の音も殆どない。周囲の音に敏感になっている自分が怖い。まだ4時前だ。  外に出ると、前日の雨で道路が濡れており、ねっとりした室内とは一転、心地よい気分になる。ちちょうど新聞配達のバイクが数台、まだ暗い道路を走っている。4時のニュースはイランと米国の対立。力と力のぶつかり合いは、歴史的にみてもロクなことがない。 10分そこそこで散歩から戻り、新聞受けを見るも、まだ来ていない。 仕方がないので先日書きかけの手紙でも書こうか。 夕べ、家内が使っていた万年筆が出てきた。インクを入れ直しておいたのだが、ペン先が乾燥しているので字が書けない。仕方なく洗面所で水を垂らしてやっとOK. 15年以上も前のこと、受け持った子の1人に印象的な母親がいた。何故か年賀状が毎年来るのだが、ここ数年前からモーロク気味でズボラな私は、年賀状すら書かなかった。今年の2月あるいは3月だったかのか気憶に無いが、その子の訃報が母親から届いた、私は、ずっと気にはしていたが、引越しのドサクサに紛れて、その手紙もどこかへ行ってしまった。  2週間ほど前、ふと思い立ちその母親にお悔やみの手紙を書いたところ、思いもかけず返事が来た。生来軽薄な私は、その内容に再度ジーンと来て、またも拙劣な字と文章の手紙を認めた。気になったのは、彼女の母親がうつ病とのこと。これは人事(ひとごと)ではない。能天気

H29-7-29; 土曜日、腰椎の意味

H29-7-29; 土曜日、腰痛の意味がわかった。  昨夜も、寝つきが悪く、1-2時間で眼が覚めてしまうことを繰り返す。 3時頃みた夢で離床しパソコンを開く。昨夕に従姉妹から来たメール返信に返事を書く。 夢の内容は、下記の通りで、親戚の葬儀に行けなかったこと、そして、7月26日の弟の3回目の命日をうっかり忘れていることに気づいた。翌27日に私を襲った急性腰痛はその天罰なのだろうか。 夢は、夜間私が1人で田舎の生家を訪れることから始まる。 自転車が北東角のくぐり口脇に自転車が2台置いてあり、すでに誰かが来ている。玄関の高い門は閉ざされて、左隣のくぐり口を開けて中にはいる。6-7人が集まって居て母もいたような気がする。中央に顔のわからな瀕死の人が横たわり、皆で議論している。どうやら、前日まで居住していた施設から何故か追い出されて、皆は憤慨している。気が短い私は、議論するよりも、その施設に怒鳴り込んでいくが、そこのトップは中年の見知らぬ女性でさんざん待たされているうちに眼が覚めた。 私は、かなり前に前後して亡くなった親戚2名を思い出した。1人は母の実家に婿養子となったKT氏で、もう1人は父の姉、つまり伯母で東京に長く住んでいた。いずれもガキの頃からお世話になったのに、なぜか葬儀に行けなかった。そのことがずっと気になっていた。 家内は、5年ほど前から、わが家全体の家系を調べていた、膨大な数で2-300名もあっただろうか。全て亡くなったかたで夫あるいは妻の名前がわからない人も含まれる。 来月は旧暦のお盆。いつの間にか疎遠となってしまった両家に、いちどお線香を上げに行きなさいといふ家内のメッセージだろうか。 鳥のさえずりがして、もう直ぐお日様も顔を出す。さあ、今日は腰痛に負けず、気を締めてすべきことをしていこう。

H29-7-28; 金曜日、うす曇、腰痛その後「上を向いて歩こう」

H29‐7-28; 金曜日、うす曇、腰痛その後 昨日来の腰痛を引きずっている。心痛もいまだ奥底に淀んでいる。 昨夜も眠れたのかどうか、断片的な睡眠で4時半を過ぎても離床できず。 ようやく尿意に耐えかねて、膝を立て、恐る恐る体を起こす。片足ずつ床に付けると両手を左右大腿に当てて、徐々に上にずらしつつ上半身を伸ばす、何とも情けない姿。 髭剃り洗面をする気力も無く、ベッドに戻り、昨日頂いた手紙のドラフトを鉛筆書きするが、横を向いても仰伏位にしても頚や肩まで痛くなる。10分以上は続けられず、今日のスケジュールを思案する。 昨日、古い名簿に出ていた家内の同僚の住所と電話番号、朝と夕方に電話したが、留守電。 ふとネット検索した、ナントカ協会のお偉いさんに名前が出ている。そんなら新幹線に乗って言ってみようかとあれこれ思案した挙句、7時半頃に先ず自宅と思われるところへ電話したが、やはり同様。9時過ぎてなんとか教会に電話するも「本日の業務は、、」10時に某に会う約束あるも、数日前から気が重い。事実腰痛があるのだから、これを口実にしてキャンセルし、2日後の日曜となった。 さて、9時半を過ぎた。再度協会に電話すると、尋ね人は昨年辞めたらしい。  その間、スマホとパソコンを使いメールチェックなどするも、ログインの際のIDだか、パスワードがどうのこうので、無駄な時間をつぶす。  娘が、郵便局とデパートに出かけたあと、私はリュックを背負い前日朝にゴミ出ししたマンションへ向かった。不用品でリサイクル店にだそうといふ紙袋と、家内が残したバッグ3個とほかを背中と紙袋に入れて、帰途に着く。重い荷物が辛いけど、当時家内はもっと辛かったに違いないと思いつつ、、、  汗だくで自宅に戻るが、既に娘は用を済ませて通帳を並べて思案している。郵便局の通帳は息子名義らしいが、カードが3枚あり、通帳がどこにあるのか分からない、、、、、。 昼飯は、鯖の水煮缶を入れたうどん。5キロ減った体重をこれ以上減らすわけにはいけない。 暑い日に、あっさりとして食べ易く、意外と美味い。 気だるい午後の時間、腰の鈍痛は座っていると悪化する。かといって寝ていても、 で16時半を過ぎてやや涼しくなったころ、再び午前行ったところへ歩き出す。歩きながら不覚にも涙が出てくる。思わず「上を向いて歩こう」のメロデ

H29-7-27; 木曜日、曇り、腰痛再発

H29-7-27; 木曜日、曇り 昨夕はなかなか寝付けなかった、KGBのH16年に書いた日記メモが見つかって、それを読んだからかもしれない。懐かしいこともあるが、同時に思い出したくないことも多い。 今朝は3時頃からまたも眠りが浅くなり、スマホを弄(まさぐ)るが、メールの出入力に混乱す。 私の頭の中もさらに混乱しているのだろう。4時頃、空がほんのしらずんで来る頃に、こっそり起きて出かける準備をする。昨日の○○マンションに行き、ゴミ袋を二つ出す。その際に腰を痛めてしまう、、、 5時に自宅へ戻るが、まだ新聞は来ていない。 昨日、宛先不明で返送されたTさんの電話番号をメモする。手紙の住所の前か後か、それは分からないが。 そろそろ、いいだろうと、腰をさすりながら新聞を取りに行く

H29-7-26、水曜日、「言葉遣い」

H29-7-26、水曜日 けふも4時に眼が覚める、21時頃に寝るから7時間ならまあいいだろう。 夜間に、DCの娘からLINEあり、先ほど返信した。 外は車のまばらに通る音だけ、、まだ薄暗い。 家内の夢を見たかったが、残っていない。断片的な記憶のみで、ボケの進行かもしれない。多分、そうあってほしいが、安心して旅立ちの準備に入ったのだろうか。 けふの予定を確認する。 8時半に工事の責任者と合う。請求書がを受け取るが、昨日お礼のお菓子をどうするかで 娘Rと相談したが、これでいいだろうと先日のチョコ詰め合わせにした。 工事責任者は超肥満で誠実な人柄。こちらの気持ちを適切に伝えられない私にはこれくらいか。 改めて「言葉にできる人」の意味を考える。TPO,も大事だし、言葉遣いを選んで、手短にどうお礼を伝えるのか。 一昨日、仲介人とでもいふべきM氏から電話あり、直接会うべきだろうが、どうも苦手な人だ。妻の事を訊かれたらどう答えるのか。 「ちょっと、疲れが出て失礼します」とするのがいいだろうか。「休んでいる」とか「田舎に行っている」、「長く入院、、、、」だと、さらに追求されるかもしれない。 娘Rは言う。もしマンションの管理人さんに妻の状態を訊かれたら、「亡くなった」と答えるといふ。何度も訊かれると辛くなるから、とこれは葬儀の際にもお世話になったNsさんの助言。 いずれにしても、それとなく、会話を無理なく区切る技術が必要なのだ。 バカは、最低の結果であっといふ間に情報は広がる。 「今日はどちらへ?」と尋ねられたとき、「ちょっと、そこまで」と答える。 この「ちょっと」は日本語の便利な表現だと思ふ。 曖昧さを残して、話題を切り替える。 連日、国会では不毛な議論が続く。自分のことを棚に揚げて、キンキン声で追求する某など最も軽蔑すべきジンブツだ。思い起こすだけで虫唾が走る。 まー、日本人じゃないから、仕方が無いだろう。 けれども日本人であったも、忖度できない人の多いこと。 「言外の意味を察する」ことの重要性と、公的立場での使い分け、、、、 あー、やはり「言葉遣いは難しい」 「言葉に出来る人の話し方」 最後の数ページを残して、そのままになっている。 気持ちを落ちつかせるため、あるいは、未熟な話し方が多い私のこれからのために あとで読み

H29-7-25;火曜日 蘇る

H29-7-25;火曜日、ベランダで風の唄を聴く 夜中に夢を見た。昨日は後姿だけだった 突如娘YよりLINEあり、3時7分、現地は14時ころだろうか。 朦朧としたまま、夢のことをYに伝えて、送られ写真にあった手書きのメッセージを読み取ろうとした。やや癖のある字で、さり気ない気遣いの言葉、こちらで家族友人と過ごした日々に言及後、次の言葉が胸の奥に染み込んだ; >> each day will be a little easier and you will start to find a "new" normal. you seem to have some very good friends here who will undoubtedly take good care of you as you begin to heal. However, if you ever need to talk, cry, I'm always here for you.   >> ボスらしき人と日本の色紙みたいにスタッフの寄せ書きを読み直した。不覚にも涙を止めることが出来ず、ありきたりの言葉かもしれないがありがたい、国籍人種を超えた「仲間」を暖かく受け入れ慰める米国人の奥深い抱擁力とでもいふべきものを 感じた。 そして、娘Yは世界一幸せだと確信でき、その旨LINEで返した。 感動、感謝は言葉にしないと伝わらない、それも、新鮮なうちに、 情報は「生もの」 だから  ぼんやりした頭のまま、英文で礼状の草案を考えた;(離床後に、ドラフトを娘Yへメール ) TOMORROWの歌詞の英訳を探した、 http://www.3131.info/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E7%9C%9F%E5%A4%9C/TOMORROW/?trans=en >> The number of tears I could be stronger Like a flower blooming in asphalt In all that's afraid I'll come for you tomorrow 4時半離床、鳥の囀(さえず)る声でスウェーデン旅行のことを思い出す。ストックホルムからムーラに

H29-7-23,日曜、探し物毎日、「言葉にできる人」

H29-7-23,日曜、探し物毎日 今朝も4時半に目が覚める、うす曇の中漠然とした時間を過ごし5時に離床。先ず昨夕書いた詫び状のはがきを投函。新聞を受け取り、部屋に戻るが、恒例の探し物。櫛が無いので予備のを使いふと甚平のポケットをみるとそこにあり。つまり昨朝にいれたまま。次にポケットにいれている縦長のメモ帳。あちこち探すも、、、 仕方なくお花の水を換える。葬儀のさいの白菊は最後の一本となり、近くのスーパーで買ったピンクの花も最後の1本が萎れて捨てる。花瓶をひとつだけにして、日々寂しくなる。  探し物のメモ帳不明のまま、机に座る。もう6時10分前だ。 7時ころにはいつものように駅へ向かう。施設Sでの作業のための準備でリュックに詰めなければ鳴らない。  昨夕のことを思い出す。昼過ぎ友人の来訪に備えて、香典返しの手配も必要。8時頃の電話でいいだろうか? ボーっとして、電車の座席で昨日の本を開く、「言葉にできる人」の話し方 鉛筆で線を引きながら、眺める。  どんどんアウトプットすることの楽しさ、相手がそれをインプットする  そうした知識が巡ることで 新陳代謝が良くなる     云々 と、下車駅近づいて気づく。切符の回数券が見当たらない。またしても探し物。胸ポケット、リュックの様々なポケット、駅のベンチでも探すが見当たらない。おずおずと駅の改札口で正直に話すと、「本来は、、ですが、これから気をつけて下さい」 相手の機微を察してのコミュニケーション。 8時10分に、非情勤務先に着き、さっと巡回。鎮痛剤のトラマールについて慌てて勉強。そこへ娘Rからの私の行動について困った困ったとLINE連絡あり。どうやら相手先を間違えているので、そのまま返事をしないで上記をしていたら、9時10分に妹Jから電話あり。いろいろ訊かれて困るだろうから、49日まで待つようにと、からっとした声が響く。妹のほうがずっとしっかりしていて、ダメな兄を諭している。それも、傷つけないように言葉を選んでいるのがよくわかる。 改めて 「言葉にできる人」 について考える。不肖私はまるで小学生レベル、いや幼稚園レベルかもしれない。 >> 「 言葉にできる」とは、相手を納得させられることが言えること 、 P11 >> ”教養のコストパーフォーマンス‘”        持っている知識教養

H29-7-24,月曜、今朝も探し物

H29-7-24,月曜、今朝も探し物 5時少し過ぎに起床、いつもよりやや遅い。昨日友人来訪後に、程なく寂寥感と虚脱感で、何もする気が無かった。 妻の夢を見た。後姿で顔は見えなかった、、、 6時過ぎにお花の水換えをしたが、ベランダの整理を思い立ち、鋏を探した。外用の鋏は2つ以上あったはずなのに、それを探すことで無駄な時間を費やす。枯れた枝を選定し、枯れ草などの除去植木鉢の土をあけるなど中腰の動作は辛い。名前は知らないが白い花・赤い花・水色の花をいは家内に捧げた。スーパーの花よりも、ずっとずっと喜んでいるだろう。やっとそれに気づく。 DCの娘にLINEで連絡していると娘Rか起床。7時。 さてけふは歯医者に行く予定 昨夜、前歯の詰め物が脱落した。朝食後8時頃に娘に相談して、以前からかかりつけに連絡を取る。9時10分頃に出て電車で向かう。10時10分前に着くと、ほどなくDrが顔を出し久しぶりと簡単な挨拶。 診察前も、まず握手をしてお互いの近況について語り合う。前回はと、記憶に無かったので訊くと21年12月、つまり8年近くになる。 午後は再びベランダに立つ。植木の手入れが好きだった家内の、何か無意識に探している。 時々風が背中の汗をやわらげてくれる。 私が20歳の頃の歌を思い出す。  振り返らず、泣かずに前を向いて歩いていく ; https://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/64609298.html >>「 人は誰もただひとり 旅に出て  人は誰もふるさとを ふりかえる」 ーこれは人生経験を積んだ方なら誰もが経験したことでしょうね。 「 ちょっぴりさみしくて ふりかえっても  そこにはただ風だけが 吹いているだけ」 ーしかし寂しくなり、ふるさとや過去を振り返っても、寂しさが増すだけで何も変わりはしません。過去は毅然として遠くに聳え立っているだけのもの。たとえ辛くても、悲しくても、寂しくても前を向いて歩き続けてゆくこと、「夢を実現するために」、「幸福を掴み取るために」、そして 「今日を生きるために」!! ー 「 ふりかえらずただひとり 一歩ずつ  ふりかえらず泣かないで 歩くんだ」

7月の悪夢;7-2からの一週間

7月の悪夢、 思い出したくないことだらけだが、しっかり記録しておかねばならない、 H29-7-18;火曜、午後に記す 「よわねをはくな、くよくよするな、、、」この言葉を思い浮かべつつキーを打つ。 7月3日、月曜日、8時半に警察から娘Rへ連絡あり。凍りつきそうになる身体を強いて動かし、何をすべきか必死で考える。仕事場で始めた作業など、直ぐに中断し、自宅に戻り車を出す。 冷たくなった家内に泣いている余裕もない、すべ怒涛のような作業手続きに振り回される。 先ず、商工会を通して葬儀屋さんを紹介いただき、連絡手配。同時に家内の親族への電話連絡。竦んでしまいそうな膝を必死で堪えていた娘Rが全て手配。おろおろする私は、ただ事後確認。 肝心の信州田舎への連絡も夕飯時20時となる有様、、、、。 7月4日、火曜日。午前は仕事の後片付けを急いで済ませ、14時過ぎに北海道からの息子を出迎える。15時、葬祭さんと2回目打ち合わせで、葬儀日取りの決定。岡山の妹病状から6日通夜、7日葬儀と決定。その旨、夫々に連絡す。 7月5日、水曜日。昼までに仕事関係機材搬出立会い、翌日の準備。夕刻3回目の打ち合わせで供物、法事引き出物確認。一応親族関係11名とする。19時過ぎにDCからの娘Y到着を待って、お寺に行き、無言の対面。 7月6日、木曜日、通夜当日。早々8時に仕事関連全てを済ませ、10時半にお寺に着き準備に没頭するが、混乱の極致。このメモも、8日に自宅のパソコン・エクセルで日程予定を作ったものを引用している。夫々の親族を出迎え、慌しく着替えて19時からの読経が始まる。通夜ぶるまい、お寺での宿泊など、、、もう少し落ち着いてから記録する 7月7日、金曜日、葬儀。10時半から読経始まり、12時半に出棺、斎場への暑く辛い道のりを親族一同と揺れれていく。、、、ここから先も、まだ辛くて今は書きたくない。 7月8日、土曜日。8時、いち早く駆けつけてくれた兄を駅まで見送る。困った時に一番頼りになるのは兄弟だ。9時からようやく記録をつけ始める。そして、かく親族へお礼の電話、悪天候で無事に着いたかと確認。 7月9日、日曜日。戒名、納骨などについてプチトラブル。 午前は非常勤先。午後、気晴らしを兼ねて遺族5名で買い物。さらに田舎を含めた2箇所のお寺に電話連絡。この日が初七日となる

H29-7-15, 土曜その2 机の整理と通帳

H29-7-15, 土曜 昼は私の机の整理 11時ころからか、机に雑然と積み重なっていたものを整理始める。妻の残したメモを日筒の袋に入れ、私や長野、九州関係の資料など、、、私の片付け能力貧困さはどうしようもない。懐かしさと寂寥の混在した時間が、どれだけ時間を費やしたか。 12時少し前に娘が昼飯oKと声を掛ける。昨夜の残り物で丼飯だ。そのボリュームに驚くが、いつの間にやら間食。娘Yは音沙汰なし。食後休みなしに、残りの整理をし、13時過ぎにベッドで仮眠。 14時に起きて、再び机の抽斗内整理を始める。 以前のデジカメが2台見つかり、中のメモリーカードをパソコンに接続し、内容を確認した。5年ほど前からの写真が出てきた。一部は項目ごとにフォルダー分類されているが、そうでないものと混在し、改めて必要と思われる分だけ分類し、パソコンへコピーした。 7つのフォルダーには妻との思い出が詰まっている。明日以降、そして後日妻の記憶を確かにするために、、、、さらにメモリースティックが見つかり、そこにも写真データあり、とりあえず妻と同行した日のホルダーを追加、計9個になった。  未練がましくいつまでも見ていたが、、 既に時刻は15時半過ぎ、Yは未だ連絡なし、仮眠から起きている娘Rはテレビを観ている。そろそろ、デパートに行き、お寺さんのお菓子やお茶をと思うのだが、、、 16時半過ぎにようやくYどんから連絡あり、急いでRおと駅に向かい、デパートでお寺さん向けのお菓子1200円くらいで、無地に名前だけかいてもらう。残った商品券を使いきろうと考え、7階の食堂に行くが、結局Yの主張する鰻が少し入ったお弁当で使い切る。 帰宅後、明日の準備をしていて、箪笥を開けたら妻の銀行通帳が見つかった。残高が昨年6月に50万入れてうん百万、、、、、。 (後で通帳を見直すと3年前、つまり3年間出し入れなし)通長女Rはすぐさま検索でATMが使える時間を調べ、同時に妻の携帯解約を画策。時刻は17時20分、お店は18時まで。シャワーを浴びたばかりのわら氏は、急いで外出着に変えて、Rは必要書類を纏めて部屋を出る。外はまだムッとする気温、時間に終われるように足早に歩く。17時40には携帯のお店に着き、お役所みたいな番号札でまち15HNとあるのでどおうしようかと5分もしないで呼ばれる。手続は実にあっけない、あっさ

H29-7-15, 土曜、帰省準備、携帯解約ほか

H29-7-15, 土曜、帰省準備 4時半に目が覚めてしまう。 昨夜8時頃田舎に電話して、日曜月曜の予定を連絡した。その後、気づいたことだが、田舎のお寺にも挨拶に行かねばならないだろう。その際に何を用意しておくべきか 寝転んだまま(隣のベッドには昨日衣装ロッカーから出した亡妻の衣類が畳んで置いたまま)スマホで検索する。お菓子は熨斗「無地」のでお金は「お布施」にしたほうがよさそうだ。 洗面後、お線香をあげるが、ぼおっとして何もできない時間が増えてきた。熨斗袋を探そうと本棚の箱を探ると、昔の写真、北海道でお世話になった人からの封筒写真などが出てきて、改めて妻の社交性に気づく。5時45分頃に娘Rがやや不機嫌な顔で現れ、もう起きているかと声を出し、すぐまた自室に入ってしまった。私は、すべきことがいくつもあり、その優先順序が混乱している。 でもできることから、ひとつひとつ進めていくしかない。 百均の仏事熨斗袋を見つけ、筆ペンで「御布施」、自分の名前を書く。2通用意し、それぞれに金額メモを記した付箋を貼り付ける、そうだ、袱紗も必要だが、どこにあるのだろう。葬儀の際は紫の風呂敷で代用したが、、、。 そろそろ6時、今日の予定を再確認。  10時頃に葬儀屋さんと打ち合わせ  12時半ころに娘Yが広島からの米国友人を迎え ということは、デパートに行く時間は11時過ぎになってしまう。お菓子とお茶の用意も必要。 明日16日、日曜の予定も頭に入れなければならない。 午前は、施設Sへ、12時半にはS駅前から車で長野に向かう。 昨夜車ナビでチェックすると、(と、昨夜書いた筈のメモを探すが見当たらない、、情けない) 幸い、昨夜の画面が保存されており、それによると一般道で4時間20分、182キロ。到着予定は17時半だが、娘Rは懐疑的。 さて、6時過ぎた、 けふも多忙で過酷な1日、いざ戦闘開始だ。負けてたまるか もう少しで10時になる。葬祭担当者が来訪する。費用や、位牌の件など 9時に近所のスーパーが空くので、私1人で向かう。娘Yはヘアカットの予約が9時半とのことで、先に出る。それを上の娘Rが散々毒づくが、感情を吐露することでバランスがとれるのだろう。 私はリュックとエコバッグで片道10分弱のスーパーFへ向かう。何故か妻が行くのを嫌がっていたけれど、それも断

H29-7-16;日曜、長野へ

H29-7-16;日曜、長野へ 4時前からうとうとし、5時離床。赤いお日様が顔を出す。髭剃りを手に思わず手を合わせる。 妻にお線香をあげ、お花の手入れるをするのだが、なにかぼーとしている。ふと気づくと蝋燭の火が点いたまま、、、 急いで手で扇ぎ消す。今と寝室を行ったりきたり、スマホを見ると昨日は8000歩以上、いつもの倍だ、昨日も長い長い一日だった。もう6時を過ぎた。 本日は、午前は施設S。7時頃には隣F駅に向かい、お昼頃にはS駅に戻らなければならない。 その間娘たちは、準備と車に荷物を積んで駅前で待機、 ナビでは4時間半ほど、長野への車旅が始まる、幸いけふは今のところ曇天。天候が気がかり 田舎の妹Jの家に泊まることとなったのは、すべてのお膳立ては娘Rの働きかけによる。Jと2日前から連絡し、都合など打ち合わせていた。 だらしなく、優柔不断の私は、最終決定すべく田舎の家に母宅を含めて電話を入れたけど。 今7時半過ぎ、電車内で慣れない指使い。先ほど北海道の息子にメールれ連絡。無事になんとか荘につ着いたか気がかりだ。 心配ばかりすると、きりがが無い。 やはり慣れたキーボード入力のほうがいい。施設Sに着いたのは8時少し前、ざっと回診、新規入所1名、体調悪く嘔吐中の3F棟の方は90歳で、施設長がすでに来ていた。妻はまだ70になったばかり、あまりにも早すぎる、、、、。 写真プリントに時間がかかり、今10時前から文章をひねっている。残された家族への妻のメッセージは何だったのだろうか、それをいつも考える。 昨日、斉藤もたさんのヒント、坂村真民の言葉を手帳にペンで記した。 ふとサイトで検索すると「幸せの正体」を示唆する詩が見つかった。   「時には不幸という帽子をかぶってやってくる、、、」   考えるに、これは現実から見下手はいけないといふことだろう。   逃げることばかりの人生には、幸せは来ない、、、 その2 12時半から車で 暑い日差しの中、故郷へ向かう。 予定よりも早く着くので、電話を入れて17時半に、弟宅に着く。弟は3年前に亡くなったが、以来敷居が高くなった感じで、どうも複雑な気落ちになる。93歳の母と義妹、長男と簡単な挨拶。余計なことを聞かれないのが何よりありがたい。お線香をあげて、心配ばかりかけてきた母の顔を見て一安心。その

H29-7-18;火曜1、挨拶回り、LINE初体験

H29-7-18;火曜、LINE導入 今朝も4時ころには眼が覚める。7時過ぎにいつもより遅めの朝食、昨日昼の残りのパンと供物の果物ゼリーほか、、、8時前にゴミ出し。家内の衣類一部をドライな娘Rはぼんぼん入れて塩を振る。Yは一枚だけ手にしたが。家内の記憶が捨て去られるような重い気分でエレベータに乗る。 ここ数日の写真を送ろうとして、9時頃になって突如 LINE を試みることとなった。娘二人のアシストでなんとか初体験。メールよりも手軽で無料通話にもなるとのこと。早速長野の妹J,そして二人の娘、と接続し、九州の姪Tちゃんにも葬儀の写真を送った。ふと、名簿を見ると、大学時代科の友人Y君のギタースタンプがある。試しに近況を伝えたら30分もしないで返事あり、なんでも、今週オペ予定とのこと、娘の運転する車中から返事を打つ。 10時頃、お世話になったお寺さんに電話すると、11時から予定あり忙しそう。すぐさま車を走らせて、10分そこそこで到着。奥さんに玄関先でお礼の挨拶をしていると、ご住職が普段着で現れた。これも縁、いい出会いに恵まれた。とても気さくな方で、お経、法話も分かりやすく、本当に遺族親族を代表してお礼を申し上げた。11時の15分前、国道に出る狭い道で法事来るお坊さんの運転する車3-4台とすれ違った。 カーナビで次は商工会事務所。慣れている娘は、入り口で担当のFさんを探すが見当たらない。他の人にお願いすると、すぐ内戦連絡し、2階からFさんが顔を出す。田舎の銘菓を渡し、これからもお願いすることがあるので、娘とともに頭を下げる。次は一番お世話になったN氏。今まで一度も訪れたことのないA新田。住所をメモしている娘Rがカーナビ入力し、途中川向こうのスーパーに駐車してN氏に連絡。お店でお花とお線香も購入して、車を走らせる。左手に斎場あり、先日のことが思い出されて不覚にも涙す。運転していた娘Rに気づかれたとは、、、 沿道には、その昔幼かった子供らと川遊びに訪れた記憶が蘇る。何度か来た事のあるスーパーに駐車し、N氏宅を探し歩き、ようやくサンダル履き姿を眼にする。挨拶もそこそこに、彼の奥さんの遺骨・位牌にお線香を上げ、今後のことも含めて相談、昼前にお宅を後にする。炎天下で、何度も自転車や車でご足労いただいたこと、改めて感謝するしかない。広い道路の手前まで見送っていただいた、N氏

H29-7-18;火曜日2、その後、LINE、さがし物とかけて

H29-7-18;火曜日、その後 お昼寝後に、LINEを時々覗く。九州の姪にも写真を送ったが、そのまま、早めにシャワーを浴びて夕飯となる。 18時少し過ぎに姪から返事あり、さらに家内の弟から帽子についての質問あり、娘Rが代筆。以前母の日にプレゼントした黒い帽子、棺に入れたお気に入りのものだった、、、。 18時半頃に夕飯は妹義母の五目おこわ。昨日も少し食べて冷凍しておいたもの。娘Yはまとめて解凍、加熱試みて悪戦苦闘。私が3つに分けてチンして食べる。姪Hの勤め先からエリンギをお土産で頂き、それを挽肉と炒めたものも作って、美味しい食事となった。 明日は、娘Yが米国へ戻る準備や、妻のカード瀬降りの書類郵送、写真プリント用紙の購入、関係者への礼状書きなどなど、くよくよできる暇はなし。  よわねをはくな、くよくよするな、なきごというな、うしろをむくな 過去2週間ほどに書いたブログの編集画面構成で、表示されない部分があると判明。それを直そうとあちこち探しながら試みるが、結局分からず、、、 妻の残したメモを思い出す;   さがし物とかけて、大切なものととく   その心は、、、 整理が昔から不得手な私、これからもずっとさがし物を続けるのかも

H29-7-19;水曜日、Y帰国の準備、人のために生きよう

H29-7-19;水曜日 けふも、4時に眼を覚ます。昨夜の日野原先生死去ニュースから「いのちの言葉」「死とどう向き合うか」、家内の死をまだ実感としてとらえられない不甲斐ない私であるが、数ヶ月前届いたKSくんのことを思い出した。ベッドの上で、どう母親に手紙を書こうかと思慮しつつ、、、 まだ、薄暗い中、エレベーターで新聞を取りに降りるが、まだ来ていない。4時50分頃の日の出を見ながら、慣れない万年筆を取る。予め鉛筆で下書きしたが、思い浮かぶ言葉を其の儘記し、封をする。6時になる、お花の水を代え、剪定ばさみで処置、綺麗な水で洗いつつ、娘Rに怒られないように音を立てない様留意した。家内の写真を、見るたびに無言の対話をする。辛いけれども、弱音を吐けない、くよくよできない。6時半、ラジオ体操で汗ばむ身体を休める頃、ようやく娘二人が起きてきた。明日は羽田からDCに戻るY。仕方が無いので、私が朝食の準備をする。 やや遅めの食事は7時半前に済ませ、このキーボードを叩く。 「自分を徹底的に大事にすることから始まる」 自分のことよりも、家族を大事にしすぎた妻、支えきれなかった自責の念が度々疼く。 >> 本当に学ぶべきなのは、問題とどう取り組むか、どういう戦略を立てるべきかということである。 今の私は、どう戦略を立てるべきか。この地に留まるか、田舎に戻るか、それが問題であろう。 >> 自分のためにでなく、人のために生きようとするとき、その人は、もはや孤独ではない。 8時半ころから、眠気が襲う。ずっと寝不足なためだろう。ふと新盆の時期が気になって調べてみた。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1167446431  によると   >> (仮に、8月盆(8月13日~16日)の地域だとします)  平成23年7月1日(金)に亡くなった方は、49日目にあたる8月18(木)に忌明法要をするのが一般的です。 この場合、今年のお盆は既に終わっていますから、初盆とは「平成24年のお盆」となります。 >>  つまり来年でいいのだろう。新盆とは「 忌明法要を勤めた後に、最初に訪れるお盆」を指すので   午前9時過ぎに3人で出発。先ず郵便局で簡易書留、妻のなんとかカード抹消手続き書類送付分。Rは直ぐに某銀行で

H29-7-22;土曜、夜、友人からの電話

H29-7-22;土曜、夜、友人からの電話 18時、月2回のバイト先でS君と会う。一ヶ月ぶりか、近況報告で気分がやや落ち着く。 18時半に、携帯が鳴る。桑名のK君だった。見慣れない番号にふと不安を覚えたが、聞きなれた声が響く。これは既に書いたと思うが、 22時半には掛川のK君から電話あり、名前を見てああ手紙が届いたんだと気づく。 特有の響く声が、私を支えてくれる。 「言葉にできる人」、まさにぴったりの人物だ。 だが、そのことを娘Rに話したら、トンデモナイと一蹴。そんな手紙を書くからだ、他の人が来たらどうするのか、香典返しも困るし、なんてことをしてくれたと怒られる。  ちょっと気にはしていたが、確かに冷静に考えればその通りかも。 つまり私はまだ混乱の最中(さなか)、娘は現実をしっかり捉えている。 「事件」の前日に書いた手紙も、気になってお詫びの葉書を書き、明朝投函へ。

H29-7-20; 木曜、晴れ、ゆかり羽田へR同伴

H29-7-20; 木曜、晴れ、ゆかり羽田へR同伴 けふも、4時頃からうつらうつらし、5時に離床。お日様が出てきた頃。 お花の水を変え終わった頃、5時半か、Yが起きてきて、荷物詰めはじめる。 慌しい朝食、カステラとコーヒーほか、りんご、リンゴ・バナナ程度で、6時45分発のバス停に向かう。重くなったスーツケースを引きずりながら駅方向に向かう。周辺エレベーター位置を素早く指示する娘Rは、しっかり者で頼もしい。10分ほど前には始発バス停に着く。 いつもより早めに電車に乗り、F駅へ向かう。車内からLINEで連絡、取ったばかりの写真をそれぞれ2枚ずつ付けて。これは便利なものだ。 施設Sでは、早めに一回り、危惧していた3Fのばーちゃんは回復し、良かった良かった。 すべきことが山積するも、ふと友人3人へメール連絡した。最初の三重はエラー、仕方が無いのでプリントして、封書で送る。と思ったが、封筒を忘れ、慌てて机の引出し内からひとつ発見、切手を貼る。二番目のM君は神戸に出張中、すぐに返事あり、ありがたいと返信す。 葬儀へ参加していただいた夫々の親戚に礼状を用意しなければならない。ボケ頭を散々捻って計6通、同じ内容のもの、少し変えたものと気を使う。(これでは、ハゲがさらに進行する) 昼前、娘たちは羽田に到着とLINE連絡あり、驚くことに1800円もするといふ鰻をアホYはオーダーしたとのこと。倹約家のRは、この際ぐっと太っ腹のところを見せたらしい。 午後は只管写真のプリント。5-6枚印刷したら、インク切れで交換す。スペアは一昨年の12月のもの。といふことは、およそ2年間ほどご無沙汰っしていたことになる。つまり、家内の状態が低空飛行のままだった頃と一致する。各地親戚7軒分を、夫々どの写真がいいかと頭を捻る。昨日L判の用紙を250枚用意したが、机の抽斗を見たら10数枚分残りあり。如何に整理管理能力が欠如しているのか、情けなくなる。その前に礼状を書く。雛形を作っておいて、上下のスペースに宛先、位、一筆添えられるよう手書き部分を残した。自宅住所は、自宅に帰って、封筒裏に切って貼り付けられるようレイアウトを作り印刷しておいた。あっといふ間に15時、F駅から電車でS駅に戻る。 車内で羽田に着いた娘二人とLINEでチャット、Yは若き日の家内の写真数枚を送ってきて、共に涙

H29-7-21,金曜、晴れ、手紙、涙の数だけ、、慎独

H29-7-21,金曜、晴れ、 今朝も4時に目が覚める。ずっと睡眠時間は5時間程度、体重は一時戻るも減ったまま。 横になったまま、けふの予定を考える。手紙をいつ出すそうか、そう考えているお知らせした人が先ず2軒あり。 5時にお日様が顔を出す頃、洗面。新聞はまだ来ていない。ボサボサで気になっていた髪の毛を自分で切ると、すっきりして気分転換できる。これはお金も掛からず、ドけちな私に相応しい。 お花の水交換・手入れをする。お花は日ごとに櫛の歯が抜けるように少なくなり、もう2瓶しかない。また新しいのが必要か。その水はベランダ2箇所に犇く鉢にかけるが、多すぎて一部はかれているのもある。元気だった妻がドンドン増やしていったもの、どう処理すればいいのやら、、、  先ず、先日印刷しておいた葬儀後のお知らせに、一筆添える。これまで親しくしていただいたお礼も必要だ。これを受け取ったら、さぞかし驚くだろうが、成り行きに任せるしかない。青森のKさんと、掛川のK君夫婦。2通それぞれ封書した頃、6時半過ぎに娘Rが顔を出す。そうか、もう二人だけになってしまったのか。 ちょっと侘しい朝食後、娘Rが乗り換え地トロント着とのLINE連絡あり、2時間ほどでDCに向かうとのこと。名残惜しいのかチャットが続く。ふと昔の歌TOMORROW を思い出した。  >>  涙の数だけ強くなれるよ 風に揺れている花のように 自分をそのまま信じていてね 明日は来るよ どんな時も   明日は来るよ君のために  ♪   >>http://www.kasi-time.com/item-3473.html 「陸軍士官学校の人間学」   午前中は、久々のフリータイム。19日に借りた上記を読む; 戦争で磨かれたリーダーシップ・人材教育・マーケティング 中條高徳 著      http://ameblo.jp/aisan-terrasse/entry-11723938271.html リーダーに求められる5つの条件 「才智」「言動」「仁義の心」「勇気」 「姿勢」 そして5つの条件に加えて要求されるのが 慎独 。   「独り(身を)を慎む」という意味で、  君子たるもの 誰も見ていない時だからこそ自分を律し 恥ずべき行動はしない それを日々意識し続ける事で 自分の人

H29-7-22; 土曜、うす曇、関係者郵送追加7

H29-7-22; 土曜、うす曇、関係者郵送追加7 昨日、葬儀後の連絡を2通書いたが、度忘れで直ぐに出てこない(青森のKさんと掛川のK君) その前に、親戚関係に写真を送っているので封筒書きが結構大変だ。 昨夜も大騒動。前日昼にDC着の娘Yから、足に熱湯で火傷とのLINEあり。このようjな場合、写真で範囲と程度が分かるので助かる。幸い、直ぐに冷やしたので、軟膏やその他必要な処置を2回に分けて指示。結局3時に寝なおしたが、、、、 いつのものように、4時半には目が覚める、当方の空がほんのりと赤くなり、刻々と変わっていく。洗面と1階に下りるが、新聞はまだ来ていない。線香を上げて、本日のお花水変えは娘Rに任せて、すべきことを、朝食前5時過ぎに始める。 ところが、かなりもたつく。封筒の仕舞い場所、古い住所録ノート、挨拶状の原本を揃えるにかなり無駄な時間がかかる。関係者の年賀状、はがき、封書などを改めてみつつ、コピーしたお知らせ挨拶状に万年筆で記す。どうも、ワープロ書きだと、心が伝わらない気がするので、手間をかけるが、効率はとても悪い。お世話になった人の顔が浮かび、堪らない気分になるのを抑えつつ、ボツボツと書く。半分も過ぎた頃にRが起きてきて、朝飯の用意をする。 7時半とやや遅いが、二人だけの無言の食事。Yの一時帰国後から定番となった目玉焼き、そのYはいないので、コーヒーなし、R愛用の抹茶でお湯を注ぐ。 8時過ぎには7通すべてが完了。Rにもう少し知らせたほうが、、と訊くも、合理的で冷静なRは、否定。知ってから直ぐに来る人にどう対応すべきかという。 仕方が無いので、昨日の出来事と、今朝のことをキーボードで記録しておく。もう9時。 そろそろ投函と新聞受け取りのため準備を始める。すると、娘Rはついでに買い物云々を提案 外はいつの間にか燦燦とお日様が輝き、私は出て左のポストに向かい投函。すぐさま逆方向に先行するRを追いかける。途上、昨日のTOMORROWのメロディーが思い浮かび、スマホで検索するも操作にもたつき、結局後でとなる。涙の数だけ、強くならねばならない。 スーパーFで、買い物をする。入り口すぐにお花があり、Rに声をかけると、これは一番後だとつるの声。直前にメモしたのを私が忘れたことを、当然のような顔でてきぱきと品を選んでいく。昼飯に蕎麦かうどん

H29-7-17: 月曜、長野にてお寺、桜井、小諸

4時半過ぎに目を覚ます。昨夜の雨でひんやりとした空気がぼーっとした思考をやや引き締める。 布団の中でスマホを使って入力試みるも、うまくできず、22時、帰宅後にパソコンからこの一日を振り返る。 H29-7-17、月曜 田舎のM家、お寺、実家、そしてSへの帰宅 5時に髭剃り洗面を1階で済ませ、どうしようかと思案していると、下の妹Jが顔を出し家の外に出る。夜中に雨が降り、涼しげで過ごしやすい朝だった。北隣の駐車場と家庭菜園の前にて久しぶりの四方山話。田舎に戻ることなど、、、 6時過ぎに早めに朝ごはん、いつも元気なJの義母はこの日だけは食欲がないと言いながら実によく話す。Jは実に幸せだ。これも縁なのだろう。 6時半にお寺さんへ電話して、午前中のご都合を伺い9時半にと確認、その後M家の大家族が次々に顔を出し、賑やかな食卓を囲む。 荷物を纏めるため、2階に上る。ふとピアノを弾きたいという気持ちになり、数年前まで時々指を動かしていたのがが、音が拾えない。定番のモーツアルト、ポツンポツンと音を出し、転調したフレーズに入ると、思わず涙が零れて感傷j的になってしまう、ごまかして長調にもどり、人前で涙を出さないようじっと堪える。「よわねをはくな、くよくよするな、、、」 8時半に一晩お世話になったM家を発つ。直前に写真撮影。お寺にRYと3人で向かう。何回も通ったところなのに、40年以上も経つと道路が一変して混乱してしまう、そこで運転中のRはナビで目的地を設定し、それに従う。予定より20分早く本堂への通路で箒をもった若い女性に会う、多分方丈さんの跡取りのお嫁さんだろう、本堂応接室に案内され、そこで5-6分ほど雑談、82歳になられた方丈さんの病状を伺う。程なく電話で3-4回遣り取りした奥さんが現れ、そこで改めて挨拶、持参したお菓子を渡し、納骨のことも含めて寺の歴史などを話された。HPにも出ていて欧州にも数箇所座禅道場がある云々、、 現住職は32世岡本有光老師; http://www.npo-idn.com/rennsai-ide2.html 10時から法事があるというので、慌しい時間を割いていただいたことに感謝し9時半に本堂を辞す。娘二人と境内近辺を散策する、苔むした絵よりも美しい風景と中学時代に石段上り下りの科辛い訓練をしたことを懐かしく思い出す。 心を洗われた気分

H29 -7-13 (木);さがし物

H29 -7-13 (木); 朝雨、後晴れ 5時半起床、4時半頃から眼が覚めていたが、、、娘他に気づかって 先ず、昨日同様にお花の水変え。これが一苦労、風呂場のポリバケツと洗面器を用意して、大小4個の花瓶それぞれを入れ替える。祭壇の花も古くなったのを切り取ったり、、、これだけで30分ほどかかる。 頃合を見て、お線香を立てて亡妻の遺影・遺骨に手を合わせる 慌しい朝食は、遺児3名とで計4人揃ってのパン、コーヒー目玉焼き、果物、ヨーグルト。 がっちりと食べておかないと、動けない。過酷な運命に翻弄されること無く、戦い続けなければならない。 7時20分少し前、いつもよりやや遅めに部屋のドアを出る。つい10日ほど前にMといつもの軽い抱擁の感触が、手に感じた暖かさが、ふと思い浮かぶ。 JR電車は7時29分発、ひとつだけ空いていた席に座ると、何故か2月頃に亡くなったKS君のことを思い出す。母親からお手紙を頂きながら、多忙にかまけてそのままになってしまった、、、、、 7時50分、F駅に着く。タクシーに乗り込むと丁度雨が激しくなってくる。10分ほどで施設Sに着く頃、雨脚が弱まり、大いなる天からの援助かもしれないと、感謝する。 感謝の気持ち、謙虚な気持ちを、忘れがちだった。 施設Sでは、職員数名と挨拶を交わす。声を掛けて、大きな声で挨拶する。この何でもない日常動作が、社会に生きていく私どもにとって、とても大切なことだ。 Mが残したメモを思い出す。一部読み取れないが、数日前に見つけて、別のメモ紙に書き直して胸ポケットに入れている。今、探したが見つからない、 まさにその通りだ。 「さがし物とかけて 大切なもの ととく  その心は 必要な時に 見当たらない   (それでも求めると、さらに何が大切か  分からずじまい)」       「求める」を「救」 と書いてあるのは、助けを請うていたのだろうか Mは膨大なメモ、走り書きを残していた。それを目にするのはとても辛いことだが、もう少し落ち着いたら、読み直し、記録する必要があるだろう。 8時10分から施設内の各フロアーを巡回する。問題のある数名に声を掛け、新規入所2名の必要データをメモる。15分ほどで部屋に戻る。既に立ち上げておいたデータベースに新規入所2名の必要事項を入力する。8時45分頃には、朝のデュ