無念の心境・禅定;R元年12月2日、月曜、曇り晴れ?

昨夕、SMDからネグラに戻る。
たまには、豪華なディナー?と夢想するも、いまだ1人でレストランに行くもの億劫だし、云々でNKGMのスーパーでハンバーグ材料を購入するも、フライパンを出すまもなく、、、、。

喪中葉書の宛名書き、15プラス1の16枚だけ、その葉書を今朝散歩時に投函。

6時半の真っ赤な東雲は、いつのまにかくすんだモノトーンに変わる。
わが心も、留まることなく移ろふ。

昨日、RKTNブログで「無念の心境を禅定」、などど人様の受け売りをした。
https://plaza.rakuten.co.jp/dadkoala/diary/201912010000/

ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のこと
       https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rokusodannkyou2.html

これも、人様から借用;https://zensha.exblog.jp/28492652/
>>六根清浄、脚下照顧、回向返照。全部同じ意味。stay here, stay now!!

ひとつの思いにかたよらない無念とは何か
先の六祖壇経には、 https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rokusodannkyou2.html
>>善知識よ、我がこの法門は従上已来(いらい)、まず無念を立てて宗となし、
無相を体となし、無住を本となす。
無相とは相において相を離る。
無念とは念に於いて念ぜず。
無住は人の本性なれば、世間の善悪好醜、乃至冤と親と、
言語触刺(そくし)欺争(ぎそう)の時に於いて、
並(とも)に空と将為(な)して酬害(しゅうがい)を思わず、
念念の中に、前境を思わざるなり

どこか、老子の如き経文で、自分なりの解釈をすべき;
 要は、「無」に徹す、といふことは雑念を取り除くのにどうするか、に尽きる。

そこで、困ったときに参考にするのが →https://ameblo.jp/gen-maru/entry-11059284959.html
タイトルは「無って何だろう、」、
 原題は「なんだろう」  だが、
 次のようにも考えられる    「だろう」、   そう「難」、困難に尽きるだろうが。

>>雑念に惑わされず集中している状態ひらめき電球
であると考えますビックリマーク

例えば
何か物事に対して集中している時DASH!
仕事に対して無我夢中に一生懸命努力している時DASH!

そいういう時は大変だけれども何故かそれを苦と感じませんビックリマーク

そして周りの余計なことに惑わされることなく
余計な雑念も沸いてきませんひらめき電球

一生懸命集中している状態=無の状態

これが禅における無というものに近いのではないかと思います

なるほど、とボケかけた私にもわかるのがありがたい。 「なるほど」とひらがなで書くのがいいようだ。

 蛇足;「なるほど」の語源は、 https://biz.trans-suite.jp/4418#i-3
>>「なるほど」はもともと「出来る限り」という意味で使われていました。それが、「『出来る限り』以上のものはない」→「他には考えられない」→「明らかである」と意味が変化していき、現在の同意や納得を示す言葉として使われるようになったと考えられています。

この問題の問題は、目上の人が部下などの評価に繋がる言葉であるといふこと、
つまり、目上の人には用いないほうが適切で、日本では謙虚さが求められている。
もし使うのなら、「ごもっともです、、、」「おっしゃるとおり、、」「確かに、、」など

本題に戻る;
先のBLG より;
>>そしてこの苦を感じないというのも
まさに人生は苦であるという仏教の根本からの脱却メガネ
即ち悟りにつながっているわけですニコニコ

仕事にしろ家事にしろ子育てにしろ
自分のやるべき事に集中していること目
それを常に保っているのが悟った状態ではないかと思いますひらめき電球

と言葉でいってもそれを実践するのがとっても難しいんですよねガーン

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