ブログ引越し「戦後教育の意味」;2014年4月5日

「戦後教育の意味」;2014年4月5日

「教科書問題」がいまだくすぶっている。
五流以下のならず者は、それ相応のイイガカリでしか自己を正当化できないのだろう。
 
上には上がある。
日本と太平洋で衝突した東の国、主に米国は次のように考えた。
世界に冠たるWASPを中心としたグループにとって、東洋の奇異な一国は、植民地利益の障壁となる存在だった。無謀にも、戦いを挑んできた民族を、”二度と立ち上がれなくなるまでぶちのめす”ための有効な手段は何かと考えていた。
それは実に簡単なこと、「教育」だった。ただ、それだけのこと。
 
1930年の頃、米国民はどうだったのだろうか。
戦争に明け暮れて、テキサス、ハワイ、アラスカなどを領土拡張し、厭戦感が蔓延していた米国民にとって、欧州での戦争は”どうでもいい戦い”だった。
だが、ナチス独逸台頭によって戦火拡大した欧州では、ロンドンへの空爆も激化し、同盟国との対応に苦慮していた指導者がいた。
そこに、真珠湾攻撃が決行された。
一番喜んだのは、日本の大本営ではない、この米国大統領。
米英を中心とする連合軍側にとって、日独など枢軸国を叩きのめす”格好の機会”が来たからだった。この好機を、効率よく活用し、国内の軍需産業は息を吹き返し、名実とも”パックス・アメリカーナ”移行となった。
 
と、脱線したが、戦後教育に戻る。
米国は”システムの国”だ。日米開戦前から、敵国の文化生活などを調べ始めている。
「敵を知る」、これが戦いに勝つための最重要項目であることは、今も昔も変わりない。
彼らが注目したのは、日本の優れた教育制度。米国と負けじ劣らずで、道徳や精神教育ま
での総合教育に彼らは驚いた。
それ故、敵国を破壊するのは、文化の基盤となる「教育」であると判断、表面上は”民主的”といふ意味不明の形容詞で浸透させていった。
 
エリート意識のあった教育界は、「労働者」といふ意識に摩り替えられて、換骨奪胎され、、、

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