ブログ引越し「多民族国家と”田”民族」;2014年9月26日

「多民族国家と”田”民族」;2014年9月26日

今朝、朝食を食べならいつものようにラジオに耳を傾ける。
けふはネパールの話題だった。挨拶言葉について、日本との相違点を挙げていた、
 
日本は細やかに気候季節が移ろうので、挨拶には天候に関することが多い。
ところが、ネパールでは「お茶を飲みましたか」といふ意味の挨拶だといふ。
ただし、そのときの時刻、午前十時頃、お昼、午後の時間帯それぞれで様々使い分ける。
 
私は知らなかったが、ネパールは「多民族国家」だといふ。
多くの人々、背景の異なる様々な人々とうまくお付き合いするためにこうした「細やかな挨拶」が生まれたらしい。
 
多民族といへば、今の米国を思い浮かべるが、中強(皆様は中国といふらしいが、わたしにとってはどうも”中共”のほうがピンとくる、、)も実質的には多くの民族から成り立つ。
英国やおフランス、はてはドイツも戦後に移民を受け入れて「多民族国家」となり、
これらの欧州米国では、イスラム国との血生臭い戦争を拡大しつつある。
 
先ず記憶に残るのはユーゴスラビア。チトーといふカリスマ指導者がいたからこそ多民族多宗教、多言語の国家は体をなしていたが、彼が没するとあっといふまに混乱戦争状態となった。
その少し前にはオスマン帝国があり、さらにずっと前にはローマ帝国。
これら全ては「多民族」でシステムとしての国家は、それなりに機能していた。

牧歌的な昔は、まあそれでよかった。
だが、科学や、個人権利意識に目覚めた19世紀後半から一変した。
 
悲しいかな、文明が進むといふことと、平和安寧とは、全く無関係で、むしろ反比例しているようにさえ見受ける。
 
わが国、日本は幸いだった。
秀吉、信長の頃から、一神教の危険性を肌で理解しており、後の鎖国に結びつく。
その地理的優位性をもあって、江戸時代の300年近くは有史来稀に見る平和な時代だった。
この背景には、稲作文化が当然存在する。江戸幕府経済を支えたのはもちろん農民であり、世界各国の搾取されてきた農民とはちょっと異なる。
 
ざっと歴史を眺めても、日本は実質的に多民族の対極にある。
ところが、愚弄ばる化なる言葉が騒がしくなって久しい。
私は、欧米のことを少ししか齧っていないが、彼らの意識の奥底にある異質なものを時折感じてきた。
それは、東洋の端っこの成り上がり者で、70年ほど前に叩き潰したけど、、、、。

日本の抱える問題は、明治以来の近隣から移民を受け入れたことにあるかもしれない。
だが、欧米と異なるのは、彼らに教育を施して同じ国民として遇したことにある。
同じ施策を、感謝するところもあれば、恨みに感じているところもある。
 
やはり、教育の問題だろう。

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