存在確認と短歌;R2-7-6

今朝のラジオから 明瞭な女性の日本語が聞こえた。

どうやら短歌の文化功労者らしいが、私は顔と同様詩や歌にも”ブサイク”だから初めて聞くお名前、いくつかの微笑ましい、かつしんみりさせられる短歌もあった。

http://blog.livedoor.jp/kurekami/archives/56729432.html

このラジオ会話を聞きながら、次の言葉が耳に残った;
「その人の存在確認として、言葉を選び短歌にすることは、、、、、」

5,7.5,7,7,の文字に集約された文字言葉、それを推敲するために
途轍もない体力が要求される、と、まーそんな内容だったと記憶している。

17文字の俳句は、もっと大変だろうし、
私みたいなボンクラには逆立ちしてもかなわない世界だが、何故か感銘受けた。

朝の一仕事終えて、ボケーっと情報サーチしていたら、、、


こんなコラムもある;https://gendai.ismedia.jp/articles/images/69894?image=1
「日韓問題を世界はどう捉えているか」

私は一読して、この論旨はスタートからズレていると確信した。

その根拠はふたつ;
まず、原題が「韓国が嫌いな日本人」といったバイアス。
こうした扇動的ゲキジョー的見出しで読者に阿(おもね)るのは、週刊記事の特徴かも。

と、オリジンを見たら、「▽□現代」の記事。成る程なーと感じた。

かような先入観を叩き込むのは、客観的見方を最初からブチ壊すようなもの。
科学論文では、背景としての歴史的概要の記述は許されるが、こんなタイトルでは
即レフェリーから却下される。

このコラム筆者の戦略なのか、SNSでの嫌韓日本人の書込が例記され基盤を固めているている。

もし、フェアーな筆者であれば、反対意見も列記すべきだろう。

二つ目の根拠、これはもっとタチが悪い。
それは、日本が過去の罪(??)を認めない、といふ論旨。

米国在住の、著明人のコメントを多用しているが、冷静に判断すべき重要なこと、
「果たして、日本が東亜細亜で行った歴史的事実、その評価は正当に判断されているのだろうか?」

このコラムに一貫しているのは、日本もワルモノだから、過去の罪を認めなさいとの
「命令口調」。

ギルティー オア、ノット

戦争の勝者が敗者を裁くといふ「ナントカ裁判」、それが記録されている。


論題が一時ズレるけど、これは「サイバン」といふ名前だけの「一方的」判断。
原告と被告が、それぞれ「法」に基づき「判決」下される、
と、シロートの私は理解しているが、記録をみると、とても「裁判」ではない。

第一、「法」っていふ代物は、後からどうにでも替えられるし、
事件当時の事例であっても、権力者が法律をねじ曲げることなど容易いだろう。

まさに「パワー、力(ちから)が全て」であり、
お人好しの代名詞たる日本は、あまりにもナイーブ過ぎる。

人がこの代に生を受け、ワークをし、それが他者から認識されること、
それが「存在確認」だと思ふ。
その存在確認すら否定されるような「罪」といふものを、
果たして、誰がどうのように判断したのだろうか。

主題に戻るが、コラムでは上述の「大きな認識ズレ」があると、私は思っている。

反論として、ボケかけている私に「認識のズレ」があるのかもしれないけど、
それを判断できるような手段、
例えばこの偏屈頭のシナプス回路評価云々は、たぶん誰にも不可能だろう。



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