不幸を通ってくる幸福;宮城道雄;R2年1月27日、火曜

「人生には不幸を通ってくる幸福があるように 

落ち葉のかなたには春の芽生が待っている」


今朝4時過ぎのラジオからは、宮城道雄がテーマだった。

不幸を通ってくる幸福、とは、https://billyhito.com/2019/02/09/life-of-michio-miyagi/
に詳しく記されていた、https://billyhito.com/2019/02/09/life-of-michio-miyagi/

筝曲・お琴といへば、条件反射的に出てくる名前が宮城道雄。
>>明治27年(1894)神戸生まれ。 生後200日頃から眼病を患い、また、4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられる。8歳での失明が転機となり音楽云々とWikiにはあるが、
その生涯は、https://billyhito.com/2019/02/09/life-of-michio-miyagi/ のほうが参考になる。

>>目が不自由だという理由から道雄は入学させてもらえない。毎日彼は、小学校の門にしがみついて泣き噦っていた。
さらに、 >>道雄が四歳の時に、母アサは夫の浮気に愛想を尽かし実家に帰ってしまう。まもなく父は浮気相手と再婚するが、この新しい母親が、目を患っていた道雄に温かく接したという記録は一切残っていない。  数年後、一家は新しい仕事を始めるため朝鮮へと旅立った。
>>「姉さんや弟は連れていってもらえるのに…」こうして祖母ミネと孫だけの暮らしが始まった。何くれと泣く孫の面倒を見るミネ、、、
>>ある日ミネは、弱った孫を外へ連れ出した。<中略> 彼は身の回りにある品物を手当たり次第に触り始め、ひとつひとつ叩いては音を確かめる道雄。その熱心な姿は祖母ミネに一つの思いつきを与える。「そうだ、お琴や三味線なら目が不自由でも食べていける。」


祖母の必死さに押されて琴の前に座る。 彼の前には琴だけしかなく、こうして厳しい修行の日々が始まった。
11歳の時には、早くも免許皆伝となり、明治40年、13歳の道雄は祖母と共に父家族のいる朝鮮・仁川へ渡る。しかし、事業に失敗した父親、、、単に利用されただけだったが、お琴に向かうしかない生活。 、、、習ったのは僅か数曲だけ。ついに道雄は行き詰まりもう弾く曲がない。
ふと、水が霧になったり雪・氷になることを耳にして、作曲。
処女作『水の変態』(当時十四歳)。明治四十二年のことであった。
やがて一人の人物が道雄の作品『水の変態』に注目する——伊藤博文。ちょうどその頃朝鮮に来ていたこの大政治家が絶賛したため、少年天才作曲家・菅道雄の名声は一気に高まってゆく。伊藤は、道雄を上京させて支援することを約した。
しかしその矢先、伊藤博文は安重根によって暗殺される。上京の夢は叶うことは無かった。さらに祖母ミネが急性肺炎で亡くなり・・・・・
その後もこうした幾多の屈曲を経て、不出の筝曲家が確立され、謎の鉄道事故死といふ幕切れにもなっている。
注目すべきは、次のふたつ;
先ず、当時(多分、今も)の閉鎖社会。異端の天才を既存体制が受け入れる筈はなく、海外などの頭の柔らかい人々によって徐々に認められていった。同様なことが戦後画壇でも起こり、F画伯は国籍を捨てざるをえなくなった・・・・・
そして、日本音楽界への多大な影響。 西洋音楽との架け橋、十七絃、八十絃、短琴(たんごと:家庭用の)、大胡弓(だいこきゅう:大型の胡弓)などを発明など。
62歳といふ若さで、日本は音楽界の巨人を失った。

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