Conguratulations for everyone :25-8-23, Sat. 

 



やっと、落ちついてコーヒーが飲める。
貴重な土曜のお休みを、高校野球がぶち壊したことは さておき
本日の決勝戦を 振り返り、昔日の記憶回想ができることに 感謝したい。

野球は、不思議なスポーツだ。

先ず取り上げたいのは 正岡子規。
野球、投手、野手、捕手、盗塁などは 全て子規の翻訳語。
 子規の幼小時の「のぼる(升)」から「の」(野)・「ぼーる」(球)で
 元々俳人子規の雅号が「野球」だったから、ほんの付け足しみたいなものかも。

私は、ガキの頃から東京本郷界隈を放浪浮浪児の如く歩き回っていた。
上野駅から伯母の住んでいた森川町へは、たまたま東大構内を突っ切って歩いていたから、子規のことなど勿論知らず、竜岡門から入ると左手に霊安室があって怖くて、足早に正門方向へ抜け、森川町のパン屋と八百屋の間をショートカットすると伯母の家だった。
本郷三丁目から御茶ノ水駅方面へ降りていく坂道途中に、野球関連の何かがあった記憶あるけど、思い出せない。

さて、本日の高校野球決勝は10時開始。私は週一回だけ車を動かし、お買い物を急いで済ませてテレビ観戦に間に合うよう戻ってきて、2分前にリモコンボタンを押した。

試合は両校 良好なるスタートで、横綱相撲みたいにがっぷり四つを組む。
流れが変わったのは6回表だった。
日大三校は、完璧に抑えていた好投リリーフをヒット一本で何故か交代させた。
(この監督判断が結果的に試合を決定した)
急遽3番手としてエースがマウンドに立つも、
既に勝利の女神は沖縄に靡(なび)き始めていた。
、、、、  以下略

両校の選手は全力を尽くして戦った。結果は、時の運、誰を責めることはない、
優勝旗が 沖縄尚学の主将の手に渡る場面で、曲が流れ昔の記憶が蘇る。

ヘンデルの「見よ 勇者は」戦いに勝利して凱旋する英雄をたたえるもの。
表彰式で使われる"あの曲"のタイトルは?身近なクラシック曲いろいろ【動画あり】

私は 大昔の中学時代に 松本の県営球場のマウンド上でこの曲を聞いた。
当時の主将はエースで全試合を投げ切った同級生のユキさ。
 彼は高校も同じだが別クラスで、ともに野球部には入らず、各々別の道を進んだ。
当時の仲間たちは、今どうしているのだろうか、
一番気が合ったNonちゃんは、帰省時の飲み仲間だったが、数年前に双方の腰痛悪化で連絡が途切れている。彼は万年補欠捕手だったが、市役所に入り出世した。当たり前のこと。
 中学時代の担任N先生は野球部監督だった。10以上年前に持病の心疾患で亡くなり、葬儀に行くも簡素化運動云々で 会えた同級生は極少数だった。
英語と習字の先生だった飲んべーのK先生は、野球部部長?か何かで、英語は勿論、野球の作戦戦略の基礎を教えてもらった。ノムさんのずっと前から「データ野球」を指導しており、対戦相手の試合データをとるために私はスコアブックをつけていた。

 以上、ざっくりと「野球」に関わる記憶を辿ってみると、教科書や日常生活では体験できない多くのものが、基本メモリーとして積み重なってきたことがわかる。

 野球に限らず 全てのスポーツは心身面のみならず、
大仰ながら時空を超えた影響力があると思う。

蛇足;ボケてきたのか、文章が構成もたつくジジーでも 中学時代の走力はちょっぴり自信あり。スイッチヒッターも可能だったが、球拾い明けの2年生時、実戦部隊から外され、スコアラー兼マネージャーへと監督、部長から命じられた。
野球はベンチ入りは原則として全員ユニホーム着用し、
主審へスタメンと控え名簿が提出される。ここが、他のスポーツと異なる。
  
中学時代の修学旅行は 静岡、横浜経由東京回りのバスの旅だった。
当時の砂利道をガタガタ揺られながら坂道を降り、富士山を眺め、
日本平、三保の松原からの風景で更に圧倒された。
広大な裾野があるからこそ、富士山は存在感抜群の霊峰と呼ばれる所以であろう。
 まさかその後横浜を経て 静岡で暮らすようになるとは、、
人生、何があってもおかしくない。

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