誰が京の封印解除をしたのかだろうか?;10/05金曜、曇り

司馬遼太郎の「峠」をじっくり読んでいる。
河井継之助は、幕末で異彩を放った長岡藩士。徹底した実利実行の人とのこと、
この書には、徳川幕府崩壊のひとつのポイントとなる記述があった。

先ず、江戸幕府により設置された「京都所司代」について、
Wikiによると、”治安維持の任務にあたった幕府の部署” とある。
やがて、>>出世の通過点となり、地位のみが高く幕政上の政治力は急激に低下した。このため幕末には所司代の無力さが指摘され、その上位機関として「京都守護職」が設置された。
これは”大阪城代、京都所司代、京都・大阪・奈良・伏見の各奉行の上位。非常時は畿内諸藩の軍事指揮権を有する”とあり、時期は文久2年(1862年)、この年には寺田屋事件、生麦事件などがあった。

官僚の考え方は、今も昔も変わらない。
巨大組織といふものは、代を重ねるにつれ必ず膨張をを続けて、自己崩壊に辿り着く。中国大陸の王朝しかり、アレキサンダーやローマ帝国でさえ、滅亡した。

それを知ってか知らずか、家康といふ天才が出現した。
彼は、信長、秀吉ラインから日本を統一し、同時に堅実な統治可能たらしめる幕府体制を築きあげている。徳川体制が300年といふ長期政権を維持できるシステムは、最初から工夫されていた。

"Show the flag" 1990年の湾岸戦争の際、ガイコーオンチのニホンが、米国からどやされた有名な言葉。
国旗を見せろ、とは、たいどを、立場を明確に示せという意味なのだろう。
つまり、ニホン以外の普通の国(たぶん一神教の世界では、、)では、敵か味方かの区別はそのDNAに染みついているのだろう。砂漠の民は、トップによる遭遇する部族が「敵か味方か」の選択判断が、その所属部族に生命予後を決定してきた(と、私は解釈している。)

家康は、その生い立ちから必然的に尾張の小藩の存続に苦慮し、徐々に実力をつけてきた。そして、関ヶ原で「敵・味方」が明確化となった後の、長期政権維持のための骨子を作り、京都の戦略的位置にも熟知していた。->http://blog.livedoor.jp/dadkoala/archives/52531885.html

だが、幕末といふ時代は上記の家康の目論見がなし崩しにされ、京都は短期的展望しか持たない輩の巣窟となっていく。これが歴史の恐ろしさであり、海外からの圧力もあったのだろうが、関ヶ原の「恨(はん)」を持つ薩長などの暗躍で、外様勢力と京の朝廷と結びつく。こrが歴史のターニングポイントとなったのだろう。

継之介がどういう経緯で藩主の京都所司代就任を知り得たのか、それは知らない。
けれども安政七年(万廷元年、1860年)の3月3日の桜田門外の変、その事件を境にして京の情勢は一変し、江戸で細かく風聞を集めて知っていた。

幕府は強大な警察軍を京に置くことを決意し、会津藩主松平容保(たかもり)を新設の「京都守護職」に任命している。その下部組織に長岡藩主が任命されたのだから、
>>「会津もほろぶ。(中略)会津藩ほどの大船でm、船体を割られて海底に沈見ましょう。
その道連れとして、長岡藩ごとき小舟はたちまち帆柱を折られ、舵をとられ、海のもくずになってしまう」
継之助が書いた意見書に、時の家老は不愉快でたまらない、、、

運命の皮肉は、継之助の壮絶な最期にとして記されるが、彼の慧眼には改めて驚く。

では、家康の京にしていた封印、あるいは密閉保存していたシールを一体誰が剥がしたのだろうか。

 









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