「わが米本土爆撃・完全版」感想:25-4-22、Tue.
昨日のこと、職場の知人から勧められた本を読んだ。午前は、毎度バタバタするので、午後の隙間時間にページを開いた。
私は 戦記物が好きで、山岡荘八の「小説太平洋戦争」全9巻は勿論、児島譲、保阪正康、梯久美子の「散るぞ悲しき」など乱読した。但し、家永三郎の本だけは読まなかった。そして、司馬遼太郎についても、小説家として読むが、歴史家とは全く別の範疇だと考えていた。
脱線したので、本題「わが米本土爆撃・完全版」に戻る。
以前は、速読には慣れていた(つもり)が、頭の老化(つまりボケ)で時々??となる、
それでも、内容の正確な描写に引き込まれて2時間弱で読了。
米国本土爆撃計画は、主人公・藤田元海軍中尉の発案が高松宮の耳に入り、いくつかの幸運が重なって、オレゴン州の山中(市街地ではないことが最大のポイント)へ特殊な焼夷弾を投下するもの。
偵察機を収納できる潜水艦・伊25号は昭和17年8月15日、アメリカ西岸に向け、横須賀港を出港。同年9月9日未明、零式小型水上偵察機に乗る飛行長の藤田中尉は、オレゴン州の沖25海里のところ、潜水艦の甲板からカタパルト射出で飛び立ち、約40分でオレゴン州に入り、奥田二飛曹がエミリー山に爆弾2発を投下炎上を確認しすぐさま帰艦、翌日も2発を投下。これが太平洋戦争で、ただ一度だけ行われたアメリカ本土への爆撃。
>>同乗する奥田省二兵曹への「オクダ、イクゾ、スイッチ・オンダ」は、晩年85歳になった藤田信雄元中尉の死の間際でのうわ言でも漏らされていたという。
そしてこのドラマの2幕目に米国の大学生が登場するが ジョンソン某で米国軍人として藤田氏と面会するのだが、ネットで言及するものなし、、、
>>「藤田信雄元海軍中尉殿、貴殿の厚意と惜しみない友情にアメリカ国民を代表して感謝の意を捧げます。さらに私は貴殿の立派で勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります」――第40代米国大統領ロナルド・レーガン
世界で唯一、米本土を爆撃した男になぜ、大統領は感謝状とアメリカのシンボル・ホワイトハウスの星条旗を贈ったのか?内容の概要は、下記HPにあるが、
ポイントのもうひとつは、元教え子の母親・ハルさんの言葉だと思う。
終戦後の闇市で、偶然元教え子に会うが、藤田元中尉は、無職でこれからの生計をどうしようかと悩み考えていた。そこでハルさんが活を入れた「(旧海軍の軍歴なんて何の役にも立たない)身を捨ててこそ浮かぶ背もあれ、あなたなら きっとできます。」こうしてブローカー生活から昭和34年に藤田商会を設立、さらに藤田金属に発展させて年商10億円超えに発展させる。
しかし、子息に経営を任せてから 詐欺にあい倒産。 、屈辱生活を強いられるなか
昭和37年4月に、時の官房長官(鈍牛と呼ばれた大平正芳)から連絡を受ける。
その場でアメリカ政府が藤田を探していることを告げられ、アメリカへ行けと命じられる。しかも日米関係への影響を心配した日本政府は、この渡米を一切関知しないとさえ告げられた。
藤田は戦犯として裁かれるのではないかと考え、自決用に400年間自宅に代々伝わる日本刀をしのばせ渡米したが、ブルッキングズ市はかつての敵国の英雄である藤田をフェスティバルの主賓として招待したのだった。アメリカで大歓迎を受けた藤田は自らの不明を恥じ、持っていた刀を友情の印としてブルッキングズ市に贈った。
その後の経過は 下記を参照へ
【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<S006>昭和17年9月ー世界で唯一の米本土爆撃ー - 246blog
「わが米本土爆撃・完全版」の読後感想を、安直にネットから引用せんと、検索するも、、、
商魂逞しい市場原理主義なのか、参考になるもの皆無、、と諦念するのも癪だから
むきになって探したら やっとのことで、著者藤田信雄氏の故郷HPで見つけた;
【戦後70年特集】郷土の先人:世界で唯一アメリカ本土を爆撃した日本人「藤田信雄さん」を紹介します - 豊後高田市ホームページ
>>藤田さんの好きな言葉は「貧者の一灯」(たとえわずかでも、心のこもった行為こそ尊いということのたとえ)でした。
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