真田之貫と佐久間象山;R元年5-23、木曜日、晴れ

図書館で借りた文庫本、返却日が21日であったことに気づく。

その中で、池波正太郎の「戦国と幕末」、角川文庫、
これが、最も記憶に残る、忘れないうちにメモする。

真田之貫、高校時代の日本史が大嫌いだったから、ほとんど馴染みのない名前、
紀貫之の逆で”之貫”と覚えることにする。

問題あり、「ゆきつら」が、「之貫」なのか、あるいは、「幸貫」なのか??
 
Wikiには後者のようだが、、、、、
わたしはヘソマガリだから、池波先生の「之貫」を使う。

教育県といわれた信州の基礎ともいへる人物
だが、恥ずかしながら、この書を読むまで、つまり今朝までこの人物との結びつきはわからなかった。

真田之貫(ゆきつら)は、白川藩主、松平定信の二子、25歳のときに真田家の養嗣子とある。
身の丈6尺にきかく、声は遠鐘のごとしと記されている。
武術に奥義を極め、木綿の着物・袴をつけ、供も連れずに江戸市中を闊歩するので、老臣が苦労したとのこと。
 之貫が正式に家督を継ぐ8年後の文政6年(1823年)は、シーボルト来日、英国商船が開港を迫り、ロシアの圧力が迫り米国はまだであったが、勝海舟が生まれ、伊能忠敬が没した年でもある。

鎖国政策により、長崎から密かに流れこむ西洋文明の香りに、この真田之貫は非常なる関心をよせている。

こうした経緯の叙述は、池波正太郎の文章が、きわめて優れていて、いつになったらこうした文章が書けるのだろうかと、目標としている。


 こうした人物ゆえ、真田家の養嗣子になると決まると、すぐさま単独で松代領内を視察している。

有名な佐久間象山との出会いも興味深い。
象山の父は、一学といって、代々真田家に仕えており、5両5人扶持という身分の低い士分だった、

之貫が真田の当主になった文政6年は、象山13歳といふ。
一学50歳のとき子で長子だった幼名敬之助は、幼少時から山野をかけまわっていたといふ。
まるでけだもののような精悍さをもち、喧嘩口論が絶え間なく、衣服は常に破れ,生血を流さぬ日は無かったとのこと、つまり、真田之貫と佐久間象山は似たもの同士。

象山は、6歳のときに始めた四書の学問などは直ぐに卒業してしまい、近辺の子供を集めて路傍で講義までするようになった。
 それを、偶然に藩の学者・林単山が目にする、そして、後日、、、

文庫本には、道場の稽古を観て云々とあるが、
このエピソードはネット検索には出てこない。

さらに、藩主が褒美をといったところ、象山の身分の低い母親を正妻にと所望している、
この点が象山・之貫の性格、ならびに行動規範をよくあらわしている。

それにしても残念なのは、教育県といはれた信州で、真田之貫に関する情報が少なすぎる。



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