修証義 第五章;29-31

第二十九節

(その)報謝は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、唯(ただ)(まさ)に日日(にちにち)の行持(ぎょうじ)、其(その)報謝の正道(しょうどう)なるべし、謂(いわ)ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私に費やさざらんと行持するなり。

現代語訳
仏の恩に報いる生き方はいろいろあるが、恩を返そうと思うのではなく、自分もまた仏の道を歩むことこそが、もっともすぐれた報恩の行いである
仏の生き方に学び、仏の生き方にならって自分の人生を歩んでいけば、それこそが恩に報いる正しい道となるのだ。

だから日々の生活を修行そのものととらえ、修行を持続して日々をなおざりにしないように生きていきなさい。くれぐれも、自分の欲にふりまわされ欲の奴隷のように生きることがないように。
特別な行いをする必要はないから、毎日を大切にして生きていきなさい。

第三十節

光陰は矢よりも迅(すみや)かなり、身命(しんめい)は露よりも脆(もろ)し、何(いず)れの善巧(ぜんぎょう)方便ありてか過ぎにし一日を復び環(かえ)し得たる、徒(いたず)らに百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり、悲むべき形骸(けいがい)なり、設(たと)い百歳の日月は声色(しょうしき)の奴婢(ぬび)と馳走(ちそう)すとも、其中(そのなか)一日の行持を行取(ぎょうしゅ)せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生(たしょう)をも度取すべきなり、此(この)一日の身命は尊ぶべき身命なり、尊ぶべき形骸なり、此(この)行持あらん身心(しんじん)自らも愛すべし、自らも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成(ぎょうじげんじょう)し、諸仏の大道通達(だいどうつうだつ)するなり、然(しか)あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。

現代語訳
時が経つのは射られた矢より早い。私たちの命は道端の草に宿った朝露よりも儚い。どんなことをしても、一度過ぎ去った時間をもとに戻すことはできない。
だから、ただ空費するように歳月を生きるのでは虚しいだけで、正しく生きなければ悲しい人生となってしまう。

もし、これまでの多くの時間を無駄に過ごしてきてしまったと思うのなら、これからを改めればいい。
人生のなかでたとえ1日でも仏の心をおこし、仏の生き方ができたなら、無駄にしか思えない人生だったとしても、これまで生きてきてよかったと思えるようになる。そしてこれからの人生を方向づける、尊い1日となる。
この1日を生きた自分は、尊ぶべき存在である。ブッダと同じように生きることができた自分の身と心を愛してあげなさい。自分自身を敬いなさい

私たちが仏の道を歩めば、1人の仏がこの世界に姿を現わしたことになる。かつて仏たちが生きた証しが、現代にあらわれるのである。
仏の道を歩む1日を過ごせば、仏の種を蒔く1日となる。仏の生き方をすれば、その時、人は仏になっている

第三十一節

(いわ)ゆる諸仏(しょぶつ)とは釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)なり、釈迦牟尼仏 是れ即心是仏(そくしんぜぶつ)なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰(たれ)というぞと審細(しんさい)に参究すべし、正(まさ)に仏恩を報ずるにてあらん。

現代語訳
仏というのは、つまりブッダのことである。そしてブッダとは、仏の道を歩もうとする私たち人間のことである。
仏の心でこの人生を生きたなら、人は仏としてこの人生を生きているのだ

いつの時代を生きる人であっても、仏の道を歩めば、必ずブッダとしての人生を歩んでいることになる。
ブッダがどこに存在しているか知っているか。1人ひとりの心のなかに存在しているのだ。
それを「即心是仏」という。この心こそが仏である、という意味だ。

即心是仏とは誰なのか。
仏とは誰なのか。自分とは誰なのか。
存在とは畢竟、何者なのか。
この問いを生涯忘れてはいけない。このことをいつも考えていなさい。
この答えがわかったとき、真に仏の恩に報いる生き方ができるようになるだろう


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