人との交誼で己を鍛える継乃助;11/4、日曜

司馬遼太郎の「峠」の下巻も、読み応えあり。
上巻の一部については、先日このBLGに記した--> 「誰が京の封印解除をしたのかだろうか?;10/05金曜」

まず、本の写真を撮ろうとしたが、スマホを替えたばかりで、メール転送(今、デスクトップから入力)も面倒だしと、ネット探しで、ふと目にした「読書感想」に見入ってしまった;-->http://www.yama-mikasa.com/entry/2017/08/16/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%97%A5%E5%8D%88%E5%BE%8C%E5%85%AB%E6%99%82%E3%80%81%E6%AD%BB%E5%8E%BB_

どうやらこの方は、文庫本が出る前のハードカバーだろうか、上、中、下、それぞれにポイントを書いている。ボンクラの私は、ありがたく読ませてもらう;
どうやら、文庫本も2つのタイプあるらしく、3冊のものと、上下2冊のもので、下巻の表紙が異なっている。

そんなことより、内容である。
>>旅から帰った河井継之助は、長岡藩に戻って重職に就き、洋式の新しい銃器を購入して富国強兵に努めるなど藩政改革に乗り出す。ちょうどそのとき、京から大政奉還の報せが届いた。家康の幕将だった牧野家の節を守るため上方に参りたいという藩主の意向を汲んだ河井は、そのお供をし、多数の藩士を従えて京へ向う。風雲急を告げるなか、一藩士だった彼は家老に抜擢されることになった。>>

私が先ず注目したのは、旅の終わりで江戸で出会った人物のことである。
一人は福地源一郎、(https://drkoala.blogspot.com/2018/09/916.html旧幕時代にシェークスピア、シルレルを読んでいた男」)

福地源一郎を著者は「幸運児」でもあったと記している。

事実、下記にあるように明治の「日本十傑」での2位を占めたのが源一郎であり、「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)を発行する日報社に入社して社長にもなった。そして、明治に入って最初の言論弾圧で逮捕されている、まさに異能のジャーナリストだ。

>>明治18年(1885)、「今日新聞」(現在の「東京新聞」)が、各界の代表的な日本人の投票を行ない、その結果、10の分野を代表する「日本十傑」

それと、彼の紹介で出会った福沢諭吉である。源一郎とともに「天下の双福」と呼ばれ、諭吉が「日本10傑」のトップだったのは蓋(けだ)し当然であろう。
ちなみにこの「10傑」の5位が渋沢栄一、10位が榎本武陽であった。https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4620
(3位は、私の嫌いな伊藤博文だった、ただし、彼の足跡を詳しく辿ると評価は異なるかもしれない)

この福沢諭吉との対談が、実に興味深い;
当初、仲介の源一郎に対し、にべもなく断っているが、説得で気がかわり小料理店で会うこととなる。継之助は先に2階で待っており、刺客対策に腕の立つものを3人階下で見張らせている。物騒な世の中、これはまあ当然の準備であったのだろう。

興味深いのは、諭吉が物心つく頃からの「酒好き」とい点である。
母親が、幼童の諭吉の月代を剃るとき、その痛さに我慢がなりかねて泣くと、
母親は「あとで、酒をたべさせるから、もうすこしの我慢」となだめなだめして剃ったという。

酒が入って諭吉は多弁になり、加藤弘之という知人のことを話題に上げる。
加藤弘之は幕府の洋学教官で後にドイツ哲学研究の草分けとなり、東京帝大の総長にもなっている。
その加藤が裃姿で徳川慶喜に拝謁途上に、からかって次のように述べている;
「戦さが始まるなら、いちはやく俺に知らせておくれ、俺は尻をからげて逃げてしまうから」。 それを聞いた継乃助はいよいよ諭吉の肝気が気に入って、互いに意気投合となり、翌日の昼にも席を今度は諭吉が設ける。
二人は、「侍の時代がほろびる」という点では同じ考えである。しかし、諭吉と継乃助の立場の違いがあり、具体的対処が異なる。
それは、歴史が語っている。

峠(下) 新潮文庫/司馬遼太郎(著者)_画像1

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