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蚊と大砲、WASP、「峠」読了;11/15木曜

2週間ものブランクは、それなりの言い訳があるも、それを言ったらオシマイだ、、、。 葛飾の寅さんの台詞が浮かんでくる。 そして、長岡藩の河井継之助も多分同じだろうと思ふ。 両者に、いや男といふものは拘(こだわ)りといふか矜恃とでもいっていいのか、奇妙な精神構造の世界に憧れる。 寅さんのニヒリズムは笑い飛ばしてもなお、日本人の心に訴えるものを残しているが、 後者の場合は、地域社会広範囲に強烈な爪痕を残した。 著者、司馬遼太郎の作品は、これまで紀行文も含めてやや敬遠しがちであったが、この作品に描かれた河井継之助の足跡を、詳細に記述から知ることにより、過去の作品を読み直したいとさえ思った。 「峠」の下巻を読了した。 多分2週間ほど前だったと記憶しているが、主人公の死で、尻切れトンボ状態な感覚が、脳裏にしばらく焼き付き、半ボケ老人にさえなった。 歴史といふ事実は、これほどまで残酷なのか。 キャパシティーの小さい私の頭脳は、思考回路の整理に、時間が必要だったのかもしれない。 作品での、いくつものポイントをノートにメモしたつもりだったが、どこかに紛失。 如何に彼継之助の天才的政略戦略家であっても、たった一瞬の若輩狭量な司令官との邂逅が、全てを崩壊させた事実に戦慄すら覚える。 天才異才と呼ばれた人物の敗因を考える。 彼の貫いた武士道と、陽明学云々については言及しないし、するつもりもない。 政治に不可欠な武器商人が、運命の鍵を握っていたのだろう。 薩長と戦争までした後に経済援助をした大英帝国と、中央から遠く離れた小藩では、フランスのバックでスネル弟とのパイプはあったにせよ、所詮は「蚊と大砲」の違いであった。 恐ろしいまでの世界戦略観をもつ、腹黒搾損(ハラグロサクソン)。 世界経済を牛耳るWASP。つまりスネル弟に利用されたのかもしれない。 不思議な存在のスネル兄弟。 http://www.japanusencounters.net/sub_schnell.html 兄弟の国籍も不明。 一方の河井継之助は、典型的なサムライであった。 当時も今も、日本人は説明不能なロイヤルティー(頭文字がLのほう)* がある。 忠誠心とでもいふのだろうか、国家なのか、蕃なのか、それとも、、、、、?? 愚弄バル化した現代に、こ

人との交誼で己を鍛える継乃助;11/4、日曜

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司馬遼太郎の「峠」の下巻も、読み応えあり。 上巻の一部については、先日このBLGに記した--> 「誰が京の封印解除をしたのかだろうか?;10/05金曜」 まず、本の写真を撮ろうとしたが、スマホを替えたばかりで、メール転送(今、デスクトップから入力)も面倒だしと、ネット探しで、ふと目にした「読書感想」に見入ってしまった;-->http://www.yama-mikasa.com/entry/2017/08/16/%E5%85%AB%E6%9C%88%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%97%A5%E5%8D%88%E5%BE%8C%E5%85%AB%E6%99%82%E3%80%81%E6%AD%BB%E5%8E%BB_ どうやらこの方は、文庫本が出る前のハードカバーだろうか、上、中、下、それぞれにポイントを書いている。ボンクラの私は、ありがたく読ませてもらう; どうやら、文庫本も2つのタイプあるらしく、3冊のものと、上下2冊のもので、下巻の表紙が異なっている。 そんなことより、内容である。 >> 旅から帰った河井継之助は、長岡藩に戻って重職に就き、洋式の新しい銃器を購入して富国強兵に努めるなど藩政改革に乗り出す。ちょうどそのとき、京から大政奉還の報せが届いた。家康の幕将だった牧野家の節を守るため上方に参りたいという藩主の意向を汲んだ河井は、そのお供をし、多数の藩士を従えて京へ向う。風雲急を告げるなか、一藩士だった彼は家老に抜擢されることになった。>> 私が先ず注目したのは、旅の終わりで江戸で出会った人物のことである。 一人は福地源一郎、( https://drkoala.blogspot.com/2018/09/916.html 「 旧幕時代にシェークスピア、シルレルを読んでいた男 」) 福地源一郎を著者は「幸運児」でもあったと記している。 事実、下記にあるように明治の「日本 十傑 」での2位を占めたのが源一郎であり、 「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)を発行する日報社に入社して社長にもなった。そして、明治に入って最初の言論弾圧で逮捕されている、まさに異能のジャーナリストだ。 >> 明治18年(1885)、「今日新聞」(現在の「東京新聞」)が、各界の代表的な日本人の投票を行ない、その結果、10の分野を代表する「日本十傑」